最後にビートルズに加入した"遅れて来たビートル"とも称されるリンゴ・スター。その交代劇の真実を知る者は、
 今やポールだけ。ここに来て彼の存在を自分なりに考えてみたいと常々思っていました。       Episord 2
 そんなリンゴがビートルズと接点を持ったのがハンブルク時代。
リンゴの所属するバンド"ロリー・ストーム&ハリケーンズ"もビートルズと同じくハンブルクに巡業に来ていたのである。リンゴは自分のギグが終わるとビートルズが演奏している処にやって来て、客が少ない時などは色々とリクエストしていたと言う。
そんなこともあって顔見知りとなり、ピート・ベストが来れない時は代役としてビートルズのドラムを叩いた。その頃の3人のリンゴに対する印象は「ヒゲを生やした白髪まじりのヤバそうなヤツ」だったそうだ(笑) しかし、リンゴのドラミングに一番最初に心惹かれたのはジョンやポールでなく、ジョージだったと言われている。ローリング・ストーンズをデッカに推薦したように、意外やジョージの感性は確かなものだったと言える。
さて、これから話をピート・ベスト解任の話へと展開して行こう。世紀のメンバーチェンジ。時は1962年8月、1月のデッカレコードでのオーディションに落ちたビートルズは、マネージャー、ブライアン・エプスタ
インの並々ならぬ努力でジョージ・マーティンが所属するEMIのオーディションに漕ぎ着け、見事合格する。しかし、ジョージ・マーティンはピート・ベストのドラムに難色を示し、レコーディングにはセッションドラマーのアンディ・ホワイトを起用すると言い出した。謎はこの交代劇である。さて、ピート・ベストの解雇は誰が決断したのか、様々なことが推測されている。

「全く罪のない奴だったけれど鋭さがなかった。他のみんなは頭の回転が早かったけれど、ピートは俺達にどうしてもついて来られなかった。そもそもハンブルクへ行く時にドラマーが居なくて、とりあえず入れただけだ。ルックスが良くて女の子にモテたから、まともにドラムが出来なくても構わなかった。ちゃんとしたドラマーが見つかったら降りてもらうつもりだったのさ」というのがジョンのコメント。
ポールは「性格上の問題だった。プレイヤーとしてもあまり良くなかったし、僕らと違ってピートはまともな奴だったからね」
ジョージによると「ピートはギグが終わると一人で出掛けて僕らとつるもうとしなかった。ギグもよく休むし、そんな時リンゴに代役を頼んでいた。リンゴがドラムを叩くたびに『これだ!』と思っていたから、僕が『リンゴを正式なメンバーにしよう』とジョンとポールに働きかけたんだ」
この他、ピートが一番ハンサムで女の子達にモテるのを妬っかんだポールが解雇を申し出たとか、ピートの両親が町の有力者でピートの母親がビートルズのマネージメント等に対して口出し出来ないようにするためにエプスタインが仕込んだのでは?とも言われている。ジョンか3人かエプスタインか...この解雇について確信に触れるような言葉はこの後一切誰の口からも語られることは無かったが、色んな立場からの話を聞いて行くと全容が浮かんで来る。解りやすくするために一度ピートとの馴れ初めから紐解いてみる。

そもそもピートはジョージの知り合いだった。ピートの父は軍人で母は医者だった。その母親が始めた「カスバ・コーヒー・クラブ」今で言うライブハウスだが、そこにビートルズの前身となるクオリーメンが出演させてもらっていた。ジョン、ポール、ジョージ、その他のメンバーである。ピートは、この頃からドラムを始め、彼は彼のバンドで演奏するようになる。ピートの母は、ある時はバンドのメンバーに食事を与え、ある時は金銭まで借してやったりして、皆の面倒をみていたようだ。息子可愛さで、息子の友達だからという事で世話を焼いたのは言うまでもない。
この頃、ジョン率いるクオリーメンは有名になりたくてオーディションを受け続けていた。一時はジョン、ポール、ジョージの3人で出たというのも有名な話で、ドラムが居ないがどうする?という質問に「リズムはギターで刻む」と言い放ったジョン。この言葉を考えると、当時はまだドラムの重要性がかなり低かったのではないかと推測される。ギターがメインでベース、ドラムは二の次だったようだ。幾度かのオーディションを経て、ようやくビートルズはハンブルク巡業のキップを手にするのだが、ハンブルクのプロモーターの条件は5人組のバンドに限るとのことだった。ベースのスチュを入れて4人...
ドラムが足りない。しかし、このチャンスを逃すわけに行かないジョンは、取りあえず体を成すべく急遽ピートを引き入れてハンブルクに渡ったのだ。このような経緯から考えるとピートの母親はメンバーにとって大変お世話になった恩人ということになる。

@ B