Episord 60 胸さわぎ

 1967年8月25日。BBCテレビがシラ・ブラックを中心にした連続番組を申し入れてきた。エプスタインは、ちょっと前にユーロビジョン・ソング・コンテストのイギリス代表として、シラに立候補を勧めていたが、彼女は断っていた。
彼女は、イギリス代表として出場したサンディー・ショーで優勝したばかりであり、続けてイギリスが勝てるとは考えられなかったからだと言う。
ユーロビジョン・ソング・コンテストは、歴史のあるものだ。国を代表して参加するというこの大会、政治的な駆け引きが全く無いとは言い切れない要素があるのかも知れない。

そんな時にBBCからの申し入れは願ったり叶ったりという処だったのだろう。エプスタインはこの実現に努力しようとする。兼ねてからのシラの望みのように、単なるポップミュージシャンからショービジネスの世界で活躍出来る歌手としてシラ・ブラックを育てようとしているということを彼女自身にも知ってもらえる筈だからだ。
この状況をエプスタインは誰よりもシラに知って欲しかった。こんなにも、シラのために心を砕いているということを認めて欲しかったのである。

だが、彼女はポルトガルで休日を楽しんでいるところであり、なかなか連絡が着かなかった。週末をキングスレー・ヒルで過ごすことになっていたエプスタインは、秘書のジョーアンにメモを残している。
シラに電報を打って、電話するように伝えてほしいと。今ならメールでのやりとりが可能だが、当時は、ほんのちょっとしたことではあるが、随分、その後の結果に違いを生じることになる。情報の伝達速度のスピードアップは、やはり私達の行動に相当な影響を与えているということなるのだろう。

金曜日の午後、エプスタインは友人達と楽しく過ごす週末のために、キングスレー・ヒルに向かって車を走らせていた。7月17日に父親のハリーが亡くなり、旅先から急遽、リバプールに行った時以来、初めての遠出だった。
父親の死は、エプスタインを悲しませた。
未亡人となった母のクイーニーを案じたエプスタインは、服喪期間を終えると、ロンドンの自分の家に近いところに母を招いた。そして外交的な母のために、アメリカ行きにも誘っている。しかし、まだハリーが死んで間もないからとクイーニーは断った。

夕方、キングスレー・ヒルに着いた彼は、リバプールに戻った母のクイーニーに電話をしている。エプスタインは、母親を自分の家に住まわせたかったようだが、クイーニーはリバプールを離れることが出来なかった。もし、母が同居に賛成していたらどうだったろう。その後の展開に変化はあったろうか。
エプスタインから母への電話は日課のようになっていた。2日間のんびり過ごし、その後、北ウェールズに行き、マハリシのところで瞑想の修業をしているビートルズと合流する予定だ。そして、いったんロンドンに戻り、その後リバプールに行くつもりだ...そういったことをクイーニーは聞いている。

ロンドンの友人達は夕食までに来る予定だった。この時点では、一緒に行ったジェフリー・エリスとピーター・ブラウンの3人しか居なかった。
どうしたのだろう...?エプスタインは不思議そうにしていたという。ジェフリー・エリスによれば、手持ち無沙汰の状態で、3人はワイン等を何本か飲んでいた。それでも、エプスタインは特に酔ってる様子はなかった。

しかし、エプスタインは誘ったロンドンの友人達に電話を掛けるために席を立った。たが、連休の週末、友人達は他に予定が入ったり、不在だったりで、やって来る見込みは無かった。楽しみにしていた週末...たった3人では、思い描いていたような盛り上がりが期待出来ないということに、エプスタインは失望していたようだった。
「何とかする…」エプスタインは、ロンドンに行くと言い出した。ロンドンに行って友人達を連れて来ると。しかし、残された2人はどうなるのだ?エプスタインは、パーティーの主催者であるのに、そのことはもう頭に無いかのようだった。

母親のクイーニーは、土曜の午後7時になっても息子からの電話が無いことを不審に思った。ブライアンからの電話を楽しみにしていたクイーニーは、キングスレー・ヒルに電話をする。残されていた2人は、「ブライアンさんは用事が出来て、ロンドに戻りました」と伝えた。
クイーニーは、ロンドンのチャペル・ストーリーにあるブライアンの家に電話をする。
「『エプスタインさんはお休みになっています』と言いました。その次に自分が言ったことで、私は生涯悔やみ続けるのです。『じゃあ、そのままにしておいて』って言ってしまったんです」

「以前からブライアンは生活が不規則でした。ですから、その時も、あんまり心配しなかったんです。ピーターやジェフリーも彼は元気だったと言っていましたからね。2人とも心配しているようではありませんでした」母親の直感であろうか。
それでもクイーニーは、なにか変だという気がしてならなかった。日曜の午後2時。
再び、クイーニーは、チャペル・ストーリーに電話をする。

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 エプスタインの秘書、ジョーアンは日曜の午後、自宅に掛かって来た電話に胸騒ぎを覚えた。電話はエプスタインのロンドンの家に居る家政婦マリアからだった。彼女は、連休のところ電話をして申し訳ないのだが心配なのだと告げてきた。
エプスタインが金曜の午後、突然帰ってきて車を道路に置いたまま、寝室に鍵をかけて閉じこもったままだというのである。マリアとその夫であるアントニオ(執事)は、朝、ドアをノックして朝食を薦めたが、返事は無かった。
インターフォンのスイッチも切ってあり、連絡のしようが無かった。マリアは、主人の行動が何か普通とは違うように思うと電話してきたのである。ジョーアンは答えた。
「ブライアンが日曜の昼まで寝ていたって異常じゃないわ。大丈夫よ」

マリアは安心したようで、電話を切った。しかし...
電話を切ってから、ジョーアンは得体の知れぬ不安に捕らわれはじめる。昼食を終えたジョーアンは、チャペル・ストーリーに出掛けてみることにした。
その前に、アリステア・テイラーに電話した。マリアが心配して電話をかけて来たこと。そして、自分も何か気になるのだと告げたのである。

「チャペル・ストーリーに行ってみるつもりだけど、1人じゃどうも...あなたも来てくれない?」
面倒くさい気もしたが、それでもテイラーは不満そうな妻を見ながら、チャペル・ストーリーに出掛けるために身支度を整え始める。彼もジョーアン同様、最初は、いつものことだという気がした。だが、気が付くと、どうしても行かなければならないという不思議な感覚に襲われていたのだった。


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