Episord 53 シラ・ブラック

 エプスタインの仕事のメインは、一貫してビートルズであった。しかし、早くから彼が見出した女性歌手がいたことは記憶しておいてもいいだろう。
リバプールの港湾労務者の娘で、速記タイピストとしての勉強をしていたプリシラ・マリア・ベロニカ・ホワイト。彼女は、19歳の頃、すでに歌っていた。レパートリーを増やすために、彼女はエプスタインの経営するレコード店に出かけてはレコードを試聴し、速記の知識を生かしては、歌詞を書き留めていたという。試聴ばかりで全く買おうとしない彼女は、ビートルズがそうであったように、エプスタインからすれば、迷惑な客だった。

子供の頃からステージで歌うをことを夢見ていた彼女が、初めて共演したのはロリー・ストームのバンドだった。この頃、すでにこのバンドのドラマーはリンゴだったから、彼女はずっとリンゴと親しくしている。だが、歌手としての才能を高く買ったのはジョンだったようだ。
彼女はキャバーン・クラブで雑用を手伝い、チャンスがあればステージに立ち歌っていたわけで、すでによく知られた存在だった。彼女は、スタンダードナンバーを歌うのが好きだった。エプスタインのレコード店で最新ヒット曲を覚えてはいたが、歌うとなると「枯葉」のようなスタンダードナンバーになるのだった。しかし、ジョンは、彼女の個性を買っていた。

彼女はエプスタインから話しかけられるのだが、エプスタインはビートルズを売り出しに掛かっていた頃で、リバプールでは有名人である。彼女は突然のことにすっかり動揺してしまう。
「ビートルズのマネージャーなんて、私からすれば映画スターみたいなものだったわ。彼は、身に着けているもの全てが凄いんです。本物の絹のスカーフ、カシミアのコート、まるでケーリー・グラントみたい。そんな人はリバプールでは滅多に見掛けませんからね」

エプスタインは、彼女にオーディションを兼ねて歌わせるのだが、この時は上がりまくりの失敗だった。何を歌ったのかも解らない。その後、何の音沙汰もなかった。
しばらくしたある夜、ジャズバンドをバックにジャズのスタンダード・ナンバー「バイバイ・ブラックバード」を歌い終えた彼女は、客席にエプスタインが居ることに気づく。いつものように歌った彼女は、エプスタインのお気に召したようだった。この時、あのボブ・ウーラーが一緒にいて、エプスタインにこう言ったという。
「ブライアン、バカなことするんじゃないよ。彼女は成功しないよ」だが、エプスタインは彼女と契約する。当時、ジョンの発言はエプスタインの契約相手の選択にかなり影響を及ぼしていた。エプスタインは、ジョンが言うからには、あんな筈ではないと思っていたのだろう。最初の“オーディション”から9カ月も経っていたのだから。

「マージービート」は、エプスタインが新たな契約を結んだことを伝えたが、彼女の名前を間違って紹介してしまう。プリシラ・マリア・ベロニカ・ホワイト。
通称、「シラ・ホワイト」は、どうしたことか「シラ・ブラック」と誤記されたのである。だが、エプスタインは、それをそのまま取り入れた。「ブラック」のほうが、かっこいいというのである。かくしてここに、リバプール出身の女性歌手、シラ・ブラックが誕生するのである。エプスタインの彼女に対する力の入れよう並大抵ではなかった。
彼は選曲に入念な準備をし、彼女の才能を花開かせた。この頃のエプスタインのセンスは紛れもなく抜群だった。

ジョージ・マーティンはその辺のことを語っている。
「私は彼女のことをリバプールから来たかわい子ちゃんロック・シンガーだと思っていた。歌はうまいし個性もあったけど、バラードは歌えないだろうと思っていた。ところがブライアンはシラのドラマティックな可能性を教えてくれた。彼は自分が抱えるアーティストに関して、素晴らしい洞察力があった」

シラ・ブラックは英国で確固たる地位を占めるスター歌手になっていく。
「彼が居なければ、私はトップの座に着くことは出来なかったでしょうね。私はリバプール出身ですから。リバプールの人間なんて、誰も相手にされなかったんですよ。喋り方のせいで。リバプール人の方言はそれだけでハンディキャップだったんです」

だが、1966年の秋頃になると、エプスタインは一頃の情熱を彼女に対して注がなくなったかのように見えた。シラが公演している会場には、決まって必ず姿を見せるエプスタインが、初日に顔を見せた後、やがて姿を現さなくなったからだ。
シラは自分が全く無視されてしまったと感じた。NEMSのオフィスに電話して、ブライアンと直接電話をしたいと言っても、対応するのは他の人間だった。会社も、以前とは全くイメージが変わってしまった。かつてなら、心の通い合いといったものがあったのに。

「私はブライアンをスーパーマンだと思っていました。なのに、突然、彼も弱い人間の1人だということに気付かされたのです。それは大変なショックでした」
「悩みがあるのならそう言ってくれれば良かったのにと思うと残念です。そうすれば私はもっと我慢できたでしょう。でも、当時は『どうしたっていうのよ!?』という気持ちでした。私はまだ若かったんです」シラはすでに結婚していた。夫のボビーと相談し、エプスタインの元から去ることを電話で告げたのだ。
エプスタインは狂ったようになったという。彼はすぐさま2人を食事に招待した。エプスタインは、自分がずっと悩みを抱えていて体調も良くなかったのだと説明した。

3人はレストランの屋上にある庭に出た。シラは回想する。
「彼はそこで泣き崩れてしまいました。『行かないでくれ。そんなことしないでくれ、考え直してくれ』彼はそう言いました」泣いているブライアンを見て、2人も泣きだした。
「家族を別にすれば、私にとって大切な人間は5人だけなんだ。ビートルズと君だよ。どうか、いかないでくれよ、シラ...」
エプスタインは、この時、家族のように思っていた彼女が自分の抱えている問題を全く理解していないということにやっと気づいたのである。

シラ・ブラックは、彼の元を去らず、もう一度やり直すことにした。しかし、エプスタインが昔通りの仕事をこなすのにはもう限界だった。そのことに気付かなかったのは自分の過ちだったとシラは語る。
ビートルズと並んで誰よりもエプスタインと親しかったシラ・ブラックでさえ、この時までエプスタインの内面を知ることは出来なかったのである。一見、全ては修復したかのように見えた。だがエプスタインは、深く傷ついていた。
薬物への依存は高まるばかりだった。

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