Episord 49 リボルバー

 ビートルズが成長し、大人になりつつあるのは明らかだった。彼らがいよいよ自己主張を強めると、エプスタインは自分の役割が無くなるのではないかと恐れ始めていた。ビートルズはツアーを中止してしまったが、そのことを知っているのはエプスタインだけである。会社の人間にすらエプスタインは知らせていなかった。
そんなことを言えば、ビートルズが解散してしまうのだと決めつけて、スタッフはパニックに陥るのではないか。そして、なんとなく士気の低下が見られたオフィス全体が、ますます落ち込んでしまうに違いない。エプスタインは、相変わらず誰にも悩みを告げることが出来ずにいた。ビートルズはコンサートにはでないが、レコーディングは続けると言っている。

しかし、そんな形で存在するアーティストなどあり得なかったのだ。歴史的事実として、ビートルズはコンサートを行うことなく、レコード発表だけで人気を保ち続けるのだが、当時としては、そんなことは誰も考えられなかった。
1966年8月5日に発売されたアルバム「REVOLVER」は、コンサートツアーを行わなくなる少し前に発表された作品である。この年の前半、旅公演も無く、映画も企画されていたが、結局、中止となり、久し振りにまとまった時間が取れた。だから、彼らはレコーディングに十分な時間を掛けることが出来たのである。彼らが、いかに音楽的な向上心に飢えていたかが窺われる作品となっている。

ちなみに、「Please Please Me」が、たった1日でレコーディングされたことは特別としても、初期のビートルズはレコーディングにあまり時間を掛けていなかった。正確に言えば、「掛けていなかった」のではなく、「掛けさせてもらえなかった」。彼らのレコードが売れると解り、自由にスタジオを使えるようになるのは、「RUBBER SOUL」(「Michele」「Girl」「ノルウェーの森」等々)からだった。
それまでは、何時間で終われとか、録音は三度までとか、相当な制約があったらしいのである。それでいて、あんなにいい曲を残しているのだから、やはり彼らは普通ではない。
ビートルズはあらゆる意味で革命的であったが、このレコーディングという面においても変わりなかった。現在、当然のこととされている技法の殆どは、彼らがアルバムを発表する過程で生み出されているのである。

コンサートで観客の熱狂が凄くて自分達の音が聴こえなかったという言葉を述べていたことをすでに紹介したが、現在の感覚からすれば、信じられないのかも知れない。今ならモニターで簡単にクリアできる問題だからだ。
しかし、そのことでも解るように、当時は、まだまだ音を自在に操作する技術が無かったわけである。レコーディングにおいても、それは同じだった。例えば音に厚みを加えるためにはオーバーダビング、つまり何度も同じ部分を歌うといったことがなされている。
現在では一度歌うだけで、それと同じことが機械技術によって可能なのだ。

当時は4トラック全盛時である(いわゆる一発録りは2トラックと呼ばれる)。しかし、「リボルバー」では、参加したエンジニアが7トラックまで使える方法を考案している。これは画期的なことだった。このアルバムの後、長い沈黙を経て発表されるのが、あの「SGT. PEPPER’S LONELY HEARTS CLUB BAND サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」であることを思えば、この「リボルバー」は、もっと注目されてもいいアルバムかも知れない。
このアルバムのレコーディング完了と同時に、ビートルズは再び公演に出る。
日本公演は、この「リボルバー」というアルバムのレコーディング終了直後に行われたわけである。

このアルバムでは、ジョージ・ハリソンの曲が3曲含まれていることが目を引く。「Taxman」、「Love You To」、「I Want To Tell You」ジョージの作曲家としての才能が花開いたと見る向きもあるが、果たしてどうだろうか。
「Love You To」は、このころ夢中になっていたインドの楽器シタールをフィーチャーした作品である。ジョージのインド音楽への憧れは、このあと他のメンバー達をも引き込むことになるのだが、ビートルズの音楽を振り返ったときに、シタールはあまりにもその部分だけ突出しているような気もする このアルバムでも、やはり、一般的には「Taxman」のような曲が受け入れやすいのではなかろうか。

ただ、その「Taxman」も、ジョージの作品には間違いないが、ジョンの助けを得て完成した作品でもあることが解っている。生前のジョンがこの時のことを話している。
「ジョージは僕に電話で、助けてくれって頼んできた。僕に電話したのはポールには言えなかったからだよ。その頃なら、ポールはジョージを助けはしなかった。僕も自分自身とポールとの曲で手一杯だったからから、気乗りはしなかった。でも、僕はOKした。“ジョンとポールの時代”が長く続いて、ジョージは取り残されていた。その当時、ジョージはまだソングライターではなかったんだ」実際、ジョージは、これまでのアルバムで、1〜2曲ボーカルを割り当てられていただけだった。

彼には、レノン=マッカートニーの作品に協力する役割が求められていた。元々ジョージはギタリストとして上達することに熱心だった。ジョンとポールが楽器を持つと、すぐに曲を創ろうとしたのとは好対照である。ビートルズが有名になるまでは、それで十分だった。
レノン=マッカートニーの創作意欲は途方もないものであったから、次々に創られる曲を“ビートルズの作品”として磨き上げ、完成させるために、ジョージは必要とされていた。しかし、ジョージは、アルバムで歌う曲を何とか自作曲でまかなえるようになりたいと考えるようになったのである。彼が取った方法は、テープレコーダーに思いついたフレーズをどんどん録音していくというものだった。

「あとから再生してみると、その中に使えそうなフレーズやパッセージが3つか4つある場合があるんだ」
「ひとつの機材では時間の無駄としか思えないようなフレーズでも、ミキシングしたり録音したり、場合によってはダビングしたりすると、可能性が出てくるんだ」こうして完成した曲をジョンとポールに聴かせるのである。
「ジョンとポールに曲を聴かせるのはいつもためらっていたよ。彼らには1回聴かせただけで納得させなければならなかった。だから尻込みして聴かせずしまい込んでいる曲がたくさんあった」

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