Episord 45 情緒不安定

 エプスタインの演劇に対する想いは、未だに消えていなかった。彼は、自ら演技することを諦めた代わりに、劇場のオーナーになることを思い付くのである。計画は、意外に簡単に実現する。
バーナード・デルフォントとの付き合いで、劇場を借り受けることが出来たのだ。だが、商業演劇を成立させるためには、何よりも“売れそうな芝居”を確保しなければならない。ところが、彼は、商売よりも彼自身の芸術的趣味を優先した。
さらに彼は、少ないとは言えない費用を駆けて劇場を新築する計画を立てる。そこで一流俳優を起用して現代劇、古典劇の祭典を行い、最終的にはそのままロンドンに持ち込もうという構想だった。だが、ケント州ファーンボロは、その建築許可を認めず、遠大な計画はあっけなく頓挫する。

それでも、エプスタインの演劇に対する情熱は薄れない。劇場のオーナーになったということで、それまで抑えていたものが一気に噴出したようだった。エプスタインは、演劇制作そのものに手を出そうとした。彼は、アラン・ブラスターの戯曲「ア・スマッシング・デイ」をロンドンのレスター・スクエアのはずれにあるニュー・アーツ・シアター・クラブで上演することに決めた。
演出は、RADA(英国王立演劇学校)の学長ジョン・ファーナルドに依頼する。RADAは言うまでもなく、彼が俳優を目指していた頃に学んでいた学校である。

全ては順調に進んでいた。だが、開幕2日前に、ファーナルドが病気になる。この結果、最終的なリハーサルは、エプスタイン自身が監督することになったのである。
だが......
出演者は、延々と待たされることなる。約束の時間、正午になっても、彼は現れなかった。午後3時になっても姿を見せない。劇場から電話を受けた秘書がインターフォンでエプスタインに声を駆ける。劇場へ行く筈ではなかったのですかと。
エプスタインは「気分が悪い」と答えた。しかし、その声は明らかに涙声だった。

駆けつけた関係者によって、やっとエプスタインは劇場に姿を見せる。この言葉が効いたという。
「エプスタインなしで、一体どうすればいいのだろう」エプスタインは、失敗を恐れていたのだ。あのビートルズを売り出し、世界的な成功をもたらした男がである。
それほど恐れていたにも係わらず、監督役を引き継ぐと、彼は生き生きとそれをこなした。

開演初日、レノンとリンゴがやって来た。その他音楽関係者で劇場は満席となる。エプスタインは、まさに幸福の絶頂に居た。ところが、新聞の演劇評を読んで、彼の態度は一変した。
「評は悪くありませんでした。しかし、絶賛とまでは行きませんでした。彼は新聞の評を読んでガックリと落ち込んでしまいました。そしてすっかり取り乱してしまったんです」(当時の演劇協力者)

エプスタインは、大成功という結果しか思い描いていなかったのである。彼が選んだ戯曲についてはよく解らないが、芝居そのものはごく地味なもので、少数の観客に対して演じるべき種類のものだったらしい。

だが、彼はそうしたことに気が付かなかった。大成功するには大きな入れ物でという感覚だったのだろうか。巨大なステージをこなすようになったビートルズと共にいて、彼の感覚は、麻痺していた処があったのかも知れない。
「ア・スマッシング・デイ」は1カ月上演されたが、エプスタインは殆ど姿を見せなかった。彼は、失敗が許せなかったのだ。
 いつも成功し続けるなどということはあり得ないのだが。

ビートルズは大人になっていた。彼らは経験を積み、自信を持ち、ハッキリとした自分の考えを主張するようになっていた。しかし、言葉や態度では連れなくしても、相変わらずビートルズが一等信頼しているのはブライアン・エプスタインなのであった。それを彼が知らない筈はなかった。
彼はビートルズを全世界に知らせるという役目を終えてはいたが、それでご用済みというわけではなかった。ビートルズがさらなるステップを踏み出すためには、やはりエプスタインは必要な人間だった。

しかし、問題となったのはエプスタインの精神状態だった。彼は、あまりにも多くの事に手を出し過ぎていたのだ。そして、彼は誰にも相談することなく、全てを1人でやろうとしていた。
秘書のジョーアンは、エプスタインが大量の薬物に依存していることに気付いていた。彼はすでに“ひどい薬物常用者”だったと言う。興奮剤と鎮痛剤を交互に飲み、しばしば両方のバランスを失っていた。ジョーアンも同じ薬を飲んでいたと言うが、彼女が半錠飲むと2晩眠れなくなったという薬を、エプスタインは日常的に1錠そのまま飲んでいたという。

当時のエプスタインに対する彼女の言葉は驚くべきものだ。「興奮剤で辛うじて生きている」それが彼女の印象だと言う。
エプスタインの情緒不安定さは、周囲の人間なら、昔から、誰もが気づいていたことだが、秘書であった彼女によれば、薬物による影響がそれに拍車を掛けていたようだ。
「落ち着いた様子で、素敵で優しい笑顔を浮かべていたかと思うと、突然、残酷で横柄で傲慢になるんです」事はかなり深刻な状況になっているようだった。

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