Episord 40 アメリカへ

 エプスタインは“アメリカ進出”について考えていた。イギリスで成功し、ヨーロッパでも人気を得たからには、そうした考えは当然のことだという風に思うかも知れないが、それは些か違う。
当時、ポピュラー音楽はアメリカ全盛だった。例えイギリスで、あるいはヨーロッパでトップに立ったところで、それだけの話である。ごくローカルな話題でしかなかったのだ。
エプスタインには、そのような“大それた考え”を実行に移すだけの力は無かった。それは、漠然とした想いでしかなかったというのが正確なところだろう。

だが、ここに1人の人物が登場するのである。シド・バーンスタイン。コロンビア大学出身のこの小柄な男は、昼間、ジェネラル・アーティスト・コーポレーションで週給20ポンドのエージェントとして働いていた。ロックではなく、むしろ大人向けの音楽に係わることが多かった。
シド・バーンスタインは、昼間の仕事が終わるとニューヨーク・スクール・オブ・ソーシャル・リサーチというところで勉強していた。イギリス政府に関する研究を続けていたというのだが、純粋に学問的な興味からであったのかどうかは定かでない。ただ、自分の仕事と結びつけて考えるということは自然なことであろう。

教師は、彼にイギリスの新聞を読むように指導していたという。アメリカに居ながら、シド・バーンスタインは、イギリスの事情通となっていたわけである。そんな彼に、当時、イギリスの新聞紙上を賑わせていたビートルズの記事が目に入らない筈がなかった。毎日、毎日、ビートルズの話題は断えることがなかった。
それを読むことは、彼の職業からして当然だが、面白くて仕方がなかったのである。彼は、一般紙に飽き足らず、ポピュラー関係の新聞までもすべて講読するのだった。そしてついに決心する。リバプールに居るブライアン・エプスタインへの電話をである。

彼は自己紹介し、自分がビートルズに並々ならぬ関心を持っていることを伝え、アメリカ進出の計画は無いのか尋ねた。エプスタインの返事は慎重だった。アメリカ進出の希望は持っているが、まだビートルズの曲はアメリカではラジオでも全然かけてくれず、ファンも全くいないのだと答えている。
事実、このときシド・バーンスタインもビートルズを聴いたことがなかったのである。それでも彼は語り続けた。エプスタインは、もちろん、シド・バーンスタインについては全く知らなかった。しかし、相手が真剣であることは電話を通しても感じられたのだろう。
「ところで、ビートルズをニューヨークの何処に出演させようというのですか?」
「最も権威あるホール、カーネギーホールです」

エプスタインはもともとクラシック音楽ファンであり、クラシック音楽の大演奏家たちがそのホールで演奏することを知っていた。あの場所でビートルズが演奏できる!!それは、エプスタインを狂喜させた。
もっとも、この時シドは、カーネギーホールに何らかの働きかけをしていたというわけではなかった。それでも彼は具体的に話を持っていく。エプスタインが時期を尋ねたのに対し、半年後ではどうかとシドは答えた。

エプスタインは反対した。「ラジオで曲を流させなければいけないんだ。まだ自信がない」
それでは、来年の2月12日頃ではどうかとシド・バーンスタインは言う。2月12日はリンカーンの生誕日であり、カーネギーホールをおさえることも可能だと彼は知っていた。結局、エプスタインはそれを了承する。
電話での約束が交わされた。ただし、1963年の末までにアメリカでのヒットがなければ、この約束はキャンセル出来るものとした。書類による契約は行われていない。エプスタインは多くの場合、書類の交換を行わなかったという。

ところで、ビートルズにもアメリカの壁があった。かつて、トニー・シェリダンのバックバンドとして演奏したビートルズの売り込みで、ことごとく断られたあの時のように、アメリカもビートルズには関心を示さなかった。
大手のキャピトルは「プリーズ・プリーズ・ミー」を買おうとせず、仕方なしにマイナーレーベルから発売したのだった。しかも、契約条件は最低だった。次のヒット曲 「シー・ラブズ・ユー」は違うレーベルから出してみたが、やはり何の反応もなかった。今ではまったく信じられないことであるが、これは事実である。

エプスタインの寄り処は、ジョージ・マーティンの言葉だった。「ビートルズは実際にライブを見なければ、その良さが解らない」事実、ジョージ・マーティンは実際に彼らを見て、聴いて、レコーディングを決断したのだった。
エプスタインは、何としてもアメリカの人気テレビ番組に出ることだと考えていた。しかし、それにしたところで、ヒット曲が欲しい。
アメリカではシド・バーンスタインが、可能な限りの弁舌を尽くして、“イギリスを熱狂させたビートルズ”を売り込んでいた。「エド・サリバンショー」の番組プロデューサー達は、ついにこれを受け入れる。NEMSのエプスタインのオフィスに電話が掛かる。
不在だった彼の代わりに電話を受けたのが、あのピート・ショットンだったというわけである。ただし、この出演には金が掛かった。おまけにビートルズは、当時の彼らからすると極くわずかな小遣い銭でしかないような出演料でこの番組に出るのである。だが、エプスタインはそれだけのことをする価値があると考えた。とにかくビートルズを見てもらわなければ、聴いてもらわなければ。

1964年1月、ビートルズはパリに居た。オランピア劇場で3週間連続のコンサートが開始されていた。エプスタインにロンドンのオフィスから衝撃的な電報が届く。アメリカの音楽雑誌「キッシュボックス」で「I Want To Hold Your Hand(放題は「抱きしめたい」)」が1位になったと言うのである。
ビートルズは、アメリカを十分意識し、アメリカのゴスペルソングをイメージしてこの曲を作っていた。その目論見は見事に成功したわけである。第1週には80位台、2週目は40位台にいたこの曲は、3週目にしてついに全米第1位となったのである。

そして、それまで何の反応も無かった曲「She Loves You」が「抱きしめたい」を追うかのようにグングンとヒットチャート上昇し始めた。アルバム「Please Please Me」も、まさにトップになろうという勢いだった。近く「エド・サリバンショー」に彼らが出演するということが俄然、注目された。

728人の入場定員に対し、5万人の入場券希望が殺到した。アメリカでも、何かが始まろうとしていた。

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