Episord 34 リンゴ・スター

 ピート・ベストが、ビートルズからクビになった経緯については、後になっても様々なことが言われており、「これが真相だ」と言い切れるものは無い。それぞれに言い分があり、それぞれが真実だとする処のものを未だに抱えている。当事者であるピート・ベストも、もちろんそうだ。
事実上、2年半、彼は、ジョン、ポール、ジョージと共に活動している。彼自身、そうした経緯を踏まえて、不満を持っているのは確かである。しかし、多くの音楽専門家およびファン達の中で、ピート・ベストがビートルズの音楽に於いて大きなウエイトを持っていたと見る者はいない。彼は、たまたまビートルズが求めていたドラマーの補充人員として、非常に都合のよい人物だったのだ。

彼は、いつもビートルズが演奏していたカスバ・クラブのオーナーの息子であった。ハンブルグ巡業の仕事は、“5人編成のバンド”という要求であったが、当時、ビートルズでドラムを務めていた男は、妻の反対があり、外国へ出ることが出来なかった。
滅多にないチャンスを断るわけにもいかず、何とか使えるドラマーは居ないかと考え、たまたま思い出したのがピート・ベストだったのである。ビートルズには十分に吟味して選択するだけの時間は無かった。あくまでも、ピート・ベストは、欠員補充のため急遽に招かれた男だったのだ。

ビートルズは、絶えずこの新参者に対して、辛辣なジョークを浴びせる。あのスチュアート・サトクリフに対してもそうであったように。ジョンは常にそうしてきている。
あの幼なじみの悪友、ピート・ショットンでさえも、バンドとして不要となった時には、あっさりとクオリーメンからお払い箱になった。
スチュアート・サトクリフの婚約者だったアストリッド・キルヒヘアも、ピート・ベストがビートルズの中では、“忘れられたような存在”だったということをハンブルグ時代に感じていた。
そのことを知らなかったのは、誰あろう当のピート・ベスト本人だけだったのだ。

「下手だったからという風に考えられるのは、我慢できません。上手い、下手って何ですか。スタイルの違いだけの問題でしょう。僕はずっと彼らに合っていたけど、いつの間にか合わなくなっていたという、そういうことかも知れません」
だが、新参者にかなり辛辣な言葉を浴びせていたポールは、改めてそのへんの事情を語っている。
「要するにピート・ベストは下手だった。リンゴの方がずっと上手かった。それが彼を外した理由だ」何んともあっさりとしたものだが、最も“いじめられていた”と言われていたスチュアート・サトクリフについても同じような理由から、そうしたのだと語っている。
「スチュを好きじゃなかったのは事実だ。でも人間として嫌いだったわけじゃない。ベースが弾けなかった。それだけさ。グループの将来のためを考えて、彼には反対していたんだ。客に背を向けていろと言ったのは僕だ。僕は彼にベースを弾いて欲しくなかったのさ」

ポールの音楽に対する潔癖さは、ビートルズ解散後に彼が結成したウイングズでも発揮されている。ウイングズは、当時のポールの妻もメンバーの一員だった。
ウイングズは、あらゆる音楽関係者および評論家から、「なぜ素人を入れるのだ」と酷評されながらスタートしたバンドだった。もっと言えば、“物笑いのタネ”でもあったのである。しかし、そんな声をよそに、ポールは、少しずつこのグループを磨き上げていく。
ついには、「バンド・オン・ザ・ラン」、「ヴィーナス・アンド・マース」といったヒット曲を出して、さすがポールと言わせるのである。

しかし、ウイングズ解散後、バンドのメンバーや関係者達は、ポールがいかにワンマンで、自分達につらく当たったかを語ったのだった。おそらく、そこに、些かの誇張はあるにしても、全く的外れなことばかりをあげつらったというワケでもないだろう。ポールの音楽に対する態度は、ビートルズ時代とおそらく変わらない筈である。
つまり、少なくともポールの要求水準に、ピート・ベストは達していなかった。これは事実だったのだろう。

ジョンは後年、こう語っている。
「ピートをクビにしたとき、僕等は臆病だった。ブライアンにそれをやらせたんだからね。でも、面と向かってピートに言うことは、もっとひどい結果になったと思う。きっと最後は殴り合いになっただろう」
いずれにせよ、誰か1人の意見で決まったことではなかった。ジョン、ポール、ジョージの3人は、ピート・ベストを初めから仲間だと認めていなかったようだ。あくまでも一時しのぎの補充人員だった。だから本格的なプロデビューが決まったとき、彼の役目は終わったのだ。

1936年、リバプール市内のパン焼き工場で働いてたリチャード・スターキーは、同じ職場のエルシー・グリーブと結婚した。
2人は、リバプール市内で最も柄が悪いとされていたディングルへ引っ越す。そこはジョンやポール、ジョージが育った郊外より港寄りで、かなり陰鬱な印象を与える地区でもあった。
当時、ディングル出身と聞くと、リバプールの人間は、身構えるような感じになったという。まるで、凶悪犯が住んでいる地区の出身者だと言わんばかりに。もちろん、そんな人だけが住んでいるわけではなかった。ただ、いかにも貧乏長屋といった佇まいの家々が建ち並んでいたのは事実だ。

1940年7月7日、予定より1週間遅れで、1人の男の子が誕生した。リバプールに空襲が始まった頃のことである。父親のリチャード28歳、母親のエルシーは26歳であり、2人にとって初めての子どもだった。
この子は父親と同じリチャードという名前がつけられる。これは労働者階級としては当然のことだった。愛称までもが父と同じくリチーと呼ばれたこの子供は、3歳のときに両親の離婚を体験する。と言っても、もちろんその当時の記憶はない。
あのジョン・レノンが、幼い時に体験したこととよく似た環境だが、リチーの場合、特にドラマティックなことは無く、両親は話し合いによる正式な離婚だった。そして、母親のエルシーがリチーの親権者となった。

母親の記憶によれば、リチーは両親の離婚について悩んだりする様子は見られなかったという。
「でも、時々、2人じゃ寂しいというようなことを言いました。雨が降っている時なんか窓から外を見ながら、『弟か妹がいればいいな。雨が降ると話し相手がいないよ』なんて言っていました」

リチャード・スターキー。
後にドラマーとしてビートルズの一員となるリンゴ・スターの幼年時代である。
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