Episord 31 挫折からの復活 |
ハンブルグから帰ったビートルズは、それぞれに打ちひしがれていた。しばらくの間、それぞれ連絡さえ取らなかった。17歳だったジョージ・ハリスンは、自分が戻った後、すぐに仲間が戻っていたことさえ知らなかった。出掛ける前に大きなことを言って出ただけに、ひたすら恥ずかしかったという。 |
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意気消沈してハンブルグから帰った彼らだが、半年近く留守にしている間、イギリス国内ではクリフ・リチャードと共に彼のバックバンドをしていたシャドウズが大成功を収めていた。きちんとしたスーツスタイルで端正なたたずまいの彼らは、瞬く間に全国にその亜流を生み出していた。 そんな流行に馴染んでいた若者達の前に現われたビートルズは、これとは何から何まで正反対だった。服装もそうだし、演奏スタイル、音量までもが違った。 これほどの音量で演奏するバンドはいなかった。聴衆は耳をふさぎ、その場を立ち去るか、あるいはそこにとどまり、そのサウンドに文字通り“共鳴”するしかなかったのである。 「僕等はハンブルグで本当に成長したんだ。8時間ぶっ続けでドイツ人を踊らせるためには、必死になって全力を尽くさなければならなかった。思い憑く限りのことは何でもやった。お手本なんて何も無いんだからね。僕等は僕等自身がいいと信じる演奏をやった」 「でも僕等は解らなかった。ほかの連中がクリフ・リチャードの真似なんかしている時に、僕等が自分たちの個性に磨きをかけていたということは、リバプールで演奏するまで、まったく気づかなかった」(ジョン) リザーランド・ホールでの成功により、さらに大きなホールでの公演が行われた。そして、そのいずれもが、ことごとく大成功。 いや、それ以上のことになっていた。熱狂どころではないのだ。聴衆は興奮し、しばしば手に負えない事態となった。なぜか乱闘にまで発展するのである。このような事態になると、各ホールでは、トラブルを防ぐためのボディーガードを雇うようになった。 1961年以降、ビートルズは先を走っていたロリー・ストームにも追いついた筈であるが、彼らの収入はさほど増えなかった。彼らには専属のマネージャーというものが居なかったのだ。 「自分達が他のグループよりどれだけ優れているかを知るには、時間が掛った。やがて何処へ行っても客が大勢集まるということが解ってきた。そればかりか、何処までも僕等のあとを追い回し、見物するために人が集まるようになってきたんだ」(ジョージ) 大ホールでの成功は、やがて地元での定期的な演奏活動ということに落ち着く。それまで活動の場だったカスバ・クラブは、今ではあまりにも小さ過ぎた。そこで尽力したのは、やはりボブ・ウーラーだ。ビートルズは、キャバン・クラブをメインとして活動することになる。 キャバン・クラブは、リバプールで最大のクラブだったが、もともとはジャズ専用といってもいい場所で、それまでロック・グループは演奏することができなかった場所だ。キャバン・クラブはマシュウ通り8番地。界隈で一等大きなレコード店「NEMS」が、すぐ近くにあった。 |
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