Episord 31 挫折からの復活

 ハンブルグから帰ったビートルズは、それぞれに打ちひしがれていた。しばらくの間、それぞれ連絡さえ取らなかった。17歳だったジョージ・ハリスンは、自分が戻った後、すぐに仲間が戻っていたことさえ知らなかった。出掛ける前に大きなことを言って出ただけに、ひたすら恥ずかしかったという。
それは、他のメンバーも同じだった。ジョンでさえ、1週間は外出しなかった。ポールも、帰宅すると、それ見たことかということになった。父親はブラブラしている息子に働け働けと言う。「怠け者には悪魔がとり憑く」と言うわけである。
もともとポールは、その気にさえなれば、何でもそこそこにやれる男だったから、毎日毎日、父親にそんな言葉を言われ続けているうちに、働いてみようということになった。

しかし、職業紹介所が斡旋してくれた仕事は、単純労働と言っていいものであり、あまり熱心には取り組めなかった。それでも他のメンバーが、結局はすぐにバンドを活動を再開したのに、彼だけはすぐにとはいかなかった。
父親のジムに言わせると、
「私の顔を立てるために働いたんだろう」と言うことになる。
ポールは2カ月程度、トラックの運転手として働いている。
「僕はすぐに戻る決心がつかなかった。だから仕事を続けて、昼休みなんかに演奏に加わったりした」

意気消沈していた彼らだが、カスバ・クラブはビートルズを待ち望んでいた。カスバ・クラブでは、ピート・ベストの友人であったニール・アスピノールがベスト夫人に部屋を借りて住んでいた。彼はあのインスティチュートを優秀な成績で卒業し、計理士見習いとして勉強に励んでいた。
そのまま、出世コースを歩き続ける筈であったが、いつの間にやら、カスバ・クラブに関わるようになる。
彼は、ハンブルグから届いたピートの手紙で、ビートルズが当地で凄い人気であることを知らされていた。だから、彼らの帰国は“凱旋”ということになった。

「ビートルズが帰ると聞いて、僕はポスターを至るところに貼った。メンバーにピートが加わってからは、まだ一度も聴いたことがなかったからすごく楽しみにしていた」
傷心の日々を送っていたビートルズも、結局は、演奏活動を再開する。彼らの最初の仕事は、カスバ・クラブだった。
「凄かった。猛烈にうまくなっていた」
これはニールの感想である。
異国の地ハンブルグで、連日連夜、何時間も連続して演奏する日々は、ビートルズをグレードアップさせていたのだ。やがて、ロリー・ストームもハンブルグから帰ってきて、カスバ・クラブは大いに賑わうことになる。

ここでディスク・ジョッキーに成りたてのボブ・ウーラーが登場する。やがてキャバーン・クラブ専属となり、何百回となくビートルズを紹介することになる男である。
彼は、ハンブルグから戻ったビートルズを盛り立てた重要人物ということが出来る。
「私は彼らが相当にまいっているのを知っていた。ハンブルグでの終わり方を本当に悔しがっていた」
ボブはビートルズのために一肌脱ぐ。
彼は、苦労の末に、リザーランド・ホールに彼らを出演させるのである。そこは、ダンスホールとして利用されるほどの大きなホールであり、ビートルズはまだそれほど大きな場所での演奏は経験していなかった。

聴衆は、ハンブルグ仕込みのド派手な演奏を繰り広げる若者達に熱狂する。文字通り狂ったようになった。
用意されていたポスターには「ハンブルグから来たビートルズ」という文字があったためか、聴衆の多くはビートルズをドイツ人だと思ったようだった。第一、服装が他のグループとはまったく違った。革のズボンに、膝まであるような金と銀で飾られたブーツ。そして何よりも、彼らの演奏する音楽は、他のグループとは、全く違っていたのである。
「僕等は自分達が有名なんだと解った。そして初めて自分達は優秀なんだという風に考え始めた。それまでは、まあまあイケてるとは思っていたが、図抜けているとまでは思っていなかった」(ジョン)

意気消沈してハンブルグから帰った彼らだが、半年近く留守にしている間、イギリス国内ではクリフ・リチャードと共に彼のバックバンドをしていたシャドウズが大成功を収めていた。きちんとしたスーツスタイルで端正なたたずまいの彼らは、瞬く間に全国にその亜流を生み出していた。
そんな流行に馴染んでいた若者達の前に現われたビートルズは、これとは何から何まで正反対だった。服装もそうだし、演奏スタイル、音量までもが違った。
これほどの音量で演奏するバンドはいなかった。聴衆は耳をふさぎ、その場を立ち去るか、あるいはそこにとどまり、そのサウンドに文字通り“共鳴”するしかなかったのである。

「僕等はハンブルグで本当に成長したんだ。8時間ぶっ続けでドイツ人を踊らせるためには、必死になって全力を尽くさなければならなかった。思い憑く限りのことは何でもやった。お手本なんて何も無いんだからね。僕等は僕等自身がいいと信じる演奏をやった」
「でも僕等は解らなかった。ほかの連中がクリフ・リチャードの真似なんかしている時に、僕等が自分たちの個性に磨きをかけていたということは、リバプールで演奏するまで、まったく気づかなかった」(ジョン)
リザーランド・ホールでの成功により、さらに大きなホールでの公演が行われた。そして、そのいずれもが、ことごとく大成功。
いや、それ以上のことになっていた。熱狂どころではないのだ。聴衆は興奮し、しばしば手に負えない事態となった。なぜか乱闘にまで発展するのである。このような事態になると、各ホールでは、トラブルを防ぐためのボディーガードを雇うようになった。

1961年以降、ビートルズは先を走っていたロリー・ストームにも追いついた筈であるが、彼らの収入はさほど増えなかった。彼らには専属のマネージャーというものが居なかったのだ。
「自分達が他のグループよりどれだけ優れているかを知るには、時間が掛った。やがて何処へ行っても客が大勢集まるということが解ってきた。そればかりか、何処までも僕等のあとを追い回し、見物するために人が集まるようになってきたんだ」(ジョージ)

大ホールでの成功は、やがて地元での定期的な演奏活動ということに落ち着く。それまで活動の場だったカスバ・クラブは、今ではあまりにも小さ過ぎた。そこで尽力したのは、やはりボブ・ウーラーだ。ビートルズは、キャバン・クラブをメインとして活動することになる。
キャバン・クラブは、リバプールで最大のクラブだったが、もともとはジャズ専用といってもいい場所で、それまでロック・グループは演奏することができなかった場所だ。キャバン・クラブはマシュウ通り8番地。界隈で一等大きなレコード店「NEMS」が、すぐ近くにあった。

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