Episord 27 コンテスト、初巡業

 ジョージ・ハリスンは、メンバーに加わってから、ますますギターに熱中した。彼の熱心な態度を母親のルイーズは応援してくれたが、父のハロルドは心配していた。
彼の考え方は、しごく当然のものであった。学校の勉強をちゃんとして、いい仕事に就いてくれればいい。真面目な苦労人としては、当然の考え方だったのだ。すでに他の2人の兄弟は、真面目に働いている。ジョージは、2人が行かなかった学校に通っているのだ。それ以上の期待をかけたとしても、無理からぬところだ。

だが、ジョージは学校を辞めると言い出す。これは父としてはショックだったろう。実は、これは、父のハロルドには内緒で、母親と2人で決めてしまったことだった。
ルイーズにしても、世間並みに我が息子のことを心配した筈だと思うのだが、この人は、あくまでもジョージの味方だった。ジョージが入っているバンドの練習場として、家を使用することを認めたのも、この母親がいたからである。
ビートルズの成功物語で、ジョージの母親は重要視されていないようだが、もしこれほどまでにジョージとそのバンドを応援した彼女の存在がなければ、果たして彼らは成功したのだろうかと考えてしまうほどだ。

他の形でビートルズが芽を出したとしても、ジョン、ポール、ジョージという3人が一緒であった可能性は極めて低くなったのではなかろうか。そんなことを考えると、ジョージの母は、ビートルズの成功に大きく貢献した1人だと言えるだろう。
ジョージは、卒業まで待たず、16歳のときに学校を辞める。1959年の夏だった。学校を辞めても、すぐに就職できなかった彼は、結局、ポールと一緒に、ジョンのいる美術学校に通う。ただ、ジョンに会うためだ。
それならば、彼はもうプロになることを決めていたのかと言えば、そうでもなかった。電気技師の見習いをするようになったジョージは、オーストラリアやカナダといった外国へ移住することを夢みていたというから、考え方としては、まだ子供だった。あるいは、若さ故に、将来の具体的なことを考えない判断停止状態でも、全然、気にならなかったというところか。

ポールはポールで、学校にうんざりしていた。四六時中、ジョンやその取り巻き連中のいる場所にいるのだから、勉強どころではなくなっていたのも当然だった。
学校の成績も酷くなり、ジョージのように辞めようとも考えるが、どんな仕事をすればいいのか分からない。父親が学校に残れと言っていた所為で、かろうじてそこに踏みとどまっていた。
ジム・マッカートニーにとっても、長男がバンドに明け暮れているのは頭痛のタネだった。彼は若いころにバンド活動をしていただけあって、音楽にはそれなりの理解を示していたが、息子がやっている音楽は、自分の理解を超えていたのだ。ところがある日、仕事から帰った彼は、久しぶりに息子たちの練習を聞くことになる。

「聴いてみると、ただやかましいだけじゃなくて、なかなかうまくなっていると感じました。綺麗なコードを聴かせたりするんです」
妻に先立たれたジムは料理を自分でやっていた。そこで、彼は、練習をしている彼らに食事の用意をしたりするようになるのである。ポールとマイケルは好き嫌いが激しく、あまり食べるほうではなかった。熱中し出すと、ポールは食事などまったく摂らないことさえあった。
そこへ行くと、ジョンとジョージはなんでも喜んで食べてくれた。ジムは大いに喜び、彼らが来ると何かしら食事を用意するようになったというわけである。
「息子たちが残したものを彼らに出してやりましたよ。残り物だけど食べるかいなんて言ってね。ジョージは、私のカスタードが世界一美味しいって」

                ★

コンテストに出場することで、チャンスを窺っていた彼らだが、メンバーは固定せず、スチュアートがベーシストとして入った後もドラマーがいなかった。
それでも彼らはコンテストに出場した。当時、イギリスで有名だったロックン・ローラー、ラリー・パーンズが主催するオーディションが開かれたと時、当然のように彼らは参加した。ドラマーは他のバンドに頼んだと言うのだから、なかなかの心臓だ。
この時の貴重な写真が残されている。ビートルズ・マニアなら先刻ご承知のこの写真には、ジョニー・ハッチというドラマーが気乗りしない様子で映っている。ジョン、ポール、ジョージの3人が写真を通しても躍動的に、特にジョンはなかなか様になっているのとはえらい違いだ。当然と言えば当然だろうが...

そして、ベーシストのスチュアート・サトクリフ。服装も髪形も、憧れのジョンのようなスタイルにして、ただ1人、サングラスをしている。彼は目立たぬように観客に背を向けて演奏していたと言うのだが、このときは、下手(しもて)を背にし、ドラマーのほうに向いて演奏している。
これは不慣れなベースに集中するためで、ジョンとポールが進言したものだった。観客やラリー・バーンスを目にするとテンパってしまい、演奏することさえままならなくなるからだ。

結局、オーディション合格者は居なかった。オーディションの目的は、ラリー・パーンズのバックで演奏するグループを見つけることにあったのだが、彼のメガネにかなうものは居いなかった。
だが、ビートルズには、もう1つの話が持ち掛けられた。ジョニー・ジェントルという新人歌手のバックバンドとして2週間のスコットランド巡業に出ないかというものだった。これはプロとしての最初の仕事である。彼らが断るはずがなかった。ジョージは、この時、まだ16歳。ポールは学生であり、きちんと卒業するためには遅れている分を取り戻さねばならない時期であったが、当然のように、スコットランド巡業を優先した。

ポールが、勉強さえすれば学業をなんなくこなすことを知っている者たちは、これに反対した。だが、ポールはこれを説得、あるいは何となくごまかした。父親のジムを説得するのも大変なことだったようだ。この巡業には臨時のドラマーが参加したが、今では誰もこのドラマーのことを記憶していない。
この巡業で特徴的だったことは、メンバーのスチュアートに対するイジメである。ジョン、ポール、ジョージは、もうそれぞれがよく解っており、ケンカ口調で話したり、ズケズケと相手を批判することは慣れっこになっていたが、スチュアートは、どうすることも出来なかった。口汚く言われたら、それ以上の言葉で言い返すなどというのは、彼の感覚には馴染まなかったのだろう。

「僕らは非道かった。一緒に並んで座るな。一緒に飯を食うな。あっちへ行ってろ。スチュはおとなしく従うんだ」
「そうやって慣れさせたんだ。バカみたいだけど、僕等はそんな風だった」(ジョン)
2週間の巡業は、あっと言う間に終わった。ラリー・パーンズは、これ以後、仕事を与えてくれなかった。仕方なしに彼らは、再びリバプールに戻り、運が良ければ、週に一度か、二度という感じで仕事をするのだった。とにかく仕事をというので、彼らは何処にでも出かけた。ストリプティーズの演奏までやっている。

そんな彼らが出演したクラブの1つにカスバ・クラブがあった。経営者のベスト夫人は、戦時中にインドで結婚した夫のジョニー・ベストと共にリバプールにやって来た。夫は、ボクシングのプロモーターをしていたという人物で、資産家だったのだろう。住宅地区であるウェストダービーに14部屋もある邸宅を持った。
長男はリバプールカレッジエイトという優秀校に通う真面目な子供だったが、社交的な母とは違って内気なところがあった。だから、いつの間にかクラスメートを自宅へ連れてくるようになっていた。母親もそれを歓迎したのである。
長男とその仲間たちは、大きな地下室をなんとか利用できないかとベスト夫人に相談する。ベスト夫人はこれを了承した。最初は単なる息子たちの遊び場のはずだったが、やがて、これが、十代のためのコーヒークラブを作ろうという話になる。カスバ・クラブの誕生だ。
ベスト夫人の内気な息子、将来は教員になろうと考えていた若者は、ピートという名であった。やがて、ドラマーとしてビートルズと一緒に演奏活動をすることになる、あのピート・ベストである。

26 28