Episord 25 ジュリアの死

 ジョージとポールはインスティチュート中学に入学して、すぐに知り合ったと言う。2人ともバス通学であり、同じ中学ということで話すようになったのだろう。そして、2人ともギターをやっていた。ジョージがギターを始めようとしたのはポールのせいかというと、そういう事実はないようだ。
当時は、それまでになかったほどのアマチュア・バンドがブームとなっており、流行にめざとい若者であれば、それに興味を持ったというのは当然なことだったと思われる。

やがてポールはジョージの家に遊びにやってくる。
そこで初めて、ジョージがギターをやっているということを知ったのか、あるいはギターをやっているということで、興味を抱いて訪れたのかは定かでない。しかし、これ以降、2人は、いつも一緒に居るようになった。ポールはジョンと親しくなる以前は、ジョージと暇な時間の大半を過ごしていたのである。

ジョージはポールによって、ジョンが率いるクオリーメンと出会うわけである。この時点では、2人とも特にバンドには加わっていなかった。すぐに始めてしまうジョンとは違って、2人はそれぞれ、ある意味で慎重だった。初めから向上心が強かったせいなのかも知れない。
ジョージの母、ルイーズによれば、ジョージは、自分は上手いと自惚れるような処が全くなかったと言う。「いつも自分より上手な人のことを話してるんです。私は、一生懸命やれば、いつかあなたもそうなれると言ったものです」

ジョンが初めてジョージに出会った時の印象は、こうである。「最初は年を訊く気にもなれなかった。まるで子どもに見えた」信頼しているポールの紹介にも拘わらず、すぐに仲間に加えるのをためらい、腕前を確認したのは、その所為だった。
結局、ジョンは自分よりギターのコードをたくさん知っているという理由で、仲間に加えたというのが、本当の処のようだった。最初からウマが合ったポールとは違う。
「一度、僕のところに来て、一緒に映画を見ないかと誘われたけど、忙しいからって断った。最初は、何だか良くわからない奴だった」

ジョージの方はと家ば、大人のジョンに大いに興味を抱いたようである。ジョンはいかにも攻撃的だった。皮肉っぽく相手をやり込めるのが、ごく普通の日常会話なのだ。
それは新参のジョージに対しても例外ではなかったが、ジョージはそれにめげることはなかった。皮肉を言われても無視したり、お返しに皮肉な言葉を返したりした。もちろん、何処かに笑える要素とか、センスの良さのようなものがなければ、たちどころにケンカになるはずだ。次第に、ジョンはジョージを認めるようになる。他のクオリーメンのメンバーは、ジョンの辛辣な言葉に耐えられなくなるか、バンドそのものに飽きが来るなどして、次々に入れ替わった。

結局、ジョン、ポールに加えてジョージがクオリーメンの固定したメンバーとして残る。「ポールと僕は要するにウマが合った。ジョージが加わって、同じ考え方をする人間が3人になったんだ」3人は、揃ってエルビス・プレスリーが好きだった。新しい曲をラジオで聴くたびに、何とかして同じように演奏しようと試みていた。
素人バンドとしては練習の場所が問題となる筈だが、ハリソン家は、社交的なルイーズがおり、殆どいつでも利用できた。ポールの家も、父親が不在のときは、利用できた。

ジョンの家は無理だった。母親代わりのミミが、頑として受け付けなかったからだ。ジョンを心配していた彼女は、そうすることが最善の教育だと信じていたのだろう。
「ポールはよく家の前にやって来ました。『こんにちは。ミミ。入ってもいいですか』。ずるそうな目で私を見て言うんです。でも私は言いました。『いいえ。絶対だめよ』」
ジョンはジョージを盛んに褒めて、いい奴だから気に入るとミミに言ったが、ミミはジョージの服装を見て、拒絶した。

「私は好きになれませんでした。学生があんな格好をするなんて。ジョンは16歳でしたけど、私は、学校で決められたブレザーやシャツを着せていたんです」
気に入られようとして服装を改めることもしなかったジョージも、なかなか頑固者のようだが、ピンクのシャツでは、やはりミミのお気に召すわけにはいかなかったようだ。

ジョンにしても、いつもミミがいうような格好をしていたわけではない。美術学校に通うようになったジョンは、細いジーンズの上に普通のズボンを履いて家を出た。バス停では、あっという間にテディ・ボーイに変身したのだ。ジョンは、ミミの前でだけは、「いい子」にしていたのである。
そんなわけで大抵の場合、ジョージのすることはなんでも認めてくれた母親ルイーズのいるハリソン家が、彼らの練習場となった。どの親からも蛇蝎のごとく嫌われていたジョンに対してさえ、ルイーズはちょっと違った見方をしている。
「ジョンはいつも、ちょっとイカれてましたわ。絶対にしょげたところを見せないところなんかは、私そっくりでしたよ」

ジョンは美術学校に通うようになって、見かけは本当にテディ・ボーイ、不良少年そのものだった。彼自身としては、そんな感覚ではなく、単なるロック・ファンだと思っていたらしいのだが。
しかし、そんな格好をしている者は他に居ないのだから、周囲が見る目は、やはりそんなところだったわけだ。
中学の校長に、絵の才能を認められて編入した美術学校だが、彼が入ったのはレタリング専科。きちんとした処がないジョンには、まったく興味の持てないものだった。
それでも学校を辞めなかったのは、就職するよりはマシだったからだ。それに無軌道な生活ぶりを是認する人がいた。

母親のジュリアである。この頃の彼女は、ミミよりもはるかに深くジョンとの関わりを持っていた。ジョンは、まさにジュリアを頼みにしていた。それこそ、彼女は“自分と同じ考え方”の人間だったからだ。
「随分、前から僕とジュリアは本当に親しくなっていた。僕等は互いに理解し合っていた。ウマが合った。ジュリアは素晴らしい人だった」
ジュリアは、ジョンの全てを受け入れてくれた、ただ1人の人物だった。だが、悲劇は突然やってくる。ジョンは、ジュリアの家で例の“顔面神経痛”と一緒にいた。

「お巡りがやって来て、君は息子かと訊いた。まるで映画の場面みたいだった。それからお巡りは、事故の話を切り出し...僕たち2人は蒼くなった」
1958年7月15日の夜。1人の女性が車にはねられ、その生を終えた。
ジョンは、実の母であり、一番の理解者だったジュリアを失うのだ。

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