Episord 25 ジュリアの死 |
ジョージとポールはインスティチュート中学に入学して、すぐに知り合ったと言う。2人ともバス通学であり、同じ中学ということで話すようになったのだろう。そして、2人ともギターをやっていた。ジョージがギターを始めようとしたのはポールのせいかというと、そういう事実はないようだ。 |
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「私は好きになれませんでした。学生があんな格好をするなんて。ジョンは16歳でしたけど、私は、学校で決められたブレザーやシャツを着せていたんです」 気に入られようとして服装を改めることもしなかったジョージも、なかなか頑固者のようだが、ピンクのシャツでは、やはりミミのお気に召すわけにはいかなかったようだ。 ジョンにしても、いつもミミがいうような格好をしていたわけではない。美術学校に通うようになったジョンは、細いジーンズの上に普通のズボンを履いて家を出た。バス停では、あっという間にテディ・ボーイに変身したのだ。ジョンは、ミミの前でだけは、「いい子」にしていたのである。 そんなわけで大抵の場合、ジョージのすることはなんでも認めてくれた母親ルイーズのいるハリソン家が、彼らの練習場となった。どの親からも蛇蝎のごとく嫌われていたジョンに対してさえ、ルイーズはちょっと違った見方をしている。 「ジョンはいつも、ちょっとイカれてましたわ。絶対にしょげたところを見せないところなんかは、私そっくりでしたよ」 ジョンは美術学校に通うようになって、見かけは本当にテディ・ボーイ、不良少年そのものだった。彼自身としては、そんな感覚ではなく、単なるロック・ファンだと思っていたらしいのだが。 しかし、そんな格好をしている者は他に居ないのだから、周囲が見る目は、やはりそんなところだったわけだ。 中学の校長に、絵の才能を認められて編入した美術学校だが、彼が入ったのはレタリング専科。きちんとした処がないジョンには、まったく興味の持てないものだった。 それでも学校を辞めなかったのは、就職するよりはマシだったからだ。それに無軌道な生活ぶりを是認する人がいた。 母親のジュリアである。この頃の彼女は、ミミよりもはるかに深くジョンとの関わりを持っていた。ジョンは、まさにジュリアを頼みにしていた。それこそ、彼女は“自分と同じ考え方”の人間だったからだ。 「随分、前から僕とジュリアは本当に親しくなっていた。僕等は互いに理解し合っていた。ウマが合った。ジュリアは素晴らしい人だった」 ジュリアは、ジョンの全てを受け入れてくれた、ただ1人の人物だった。だが、悲劇は突然やってくる。ジョンは、ジュリアの家で例の“顔面神経痛”と一緒にいた。 「お巡りがやって来て、君は息子かと訊いた。まるで映画の場面みたいだった。それからお巡りは、事故の話を切り出し...僕たち2人は蒼くなった」 1958年7月15日の夜。1人の女性が車にはねられ、その生を終えた。 ジョンは、実の母であり、一番の理解者だったジュリアを失うのだ。 |
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