Episord 24 ジョージ・ハリスン

 ハロルド・ハリソンは14の歳には学校を辞めて働いていた。1926年から36年までは、海運会社のボーイ長だった。30年にルイーズ・フレンチと結婚。
ルイーズの父はアイルランド出身であり、ルイーズは当然ながらカトリックだった。ハロルドはカトリックではなかったため、結婚は教会でではなく、登記所で済ませている。
結婚後もハロルドは海での仕事が続くが、2人目の子どもが生まれたあと、海運会社を辞している。
船の生活の大変さが身にしみたせいもあるし、子供と一緒にいたいという考えも強かったようだ。だが、当時は不景気の真っ只中であり、このあと家族は、15カ月もの間、失業保険で暮らすことになる。

37年にバスの車掌となり、翌年には運転手となった。40年に3人目の子が、そして44年に4人目の三男として誕生した子供はジョージと名づけられた。これがジョージ・ハリソンである。
ルイーズは大柄な父親譲りの丈夫な体で、明朗快活な女性だった。一方、ハロルドは細身でクレッチマーの体型による性格判断そのままに、真面目で慎重な性格だった。ハロルドが初めてジョージを見た時の印象はこうだった。
「妙な感じでしたよ。私をそのまま小型にしたようじゃないですか。こりゃまずい。こんなに私に似ていいのだろうかと思いました」

だが、似ているのは顔つき、体つきだけだった。ジョージは、幼いときから強烈な個性を発揮するのである。ルイーズがその一端を披瀝してくれる。
「ジョージは人の手を借りるのを嫌がりました。お使いを頼んでも渡したメモをすぐに捨ててしまうんです。たとえば肉屋さんは、カウンターの上に顔だけ出したジョージを見つけて、『メモはないの』って訊くんですけど、ジョージは言ったんですって。『メモなんかないよ。一等いいポークソーセージを4分の3ポンドちょうだい』って。ジョージはそのとき2歳半くらい。近所でも有名でした」

カトリックの洗礼を受けていたジョージをルイーズはカトリック系の学校に入学させたかったが、戦後のベビーブームの関係で、どこも定員一杯。しばらく待機しなければならない状態だった。
仕方なく入学させた公立の学校は、ジョンが通ったのと同じダヴデイル小学校だった。ジョージの兄であるピーターはジョンと同学年、ジョージは学年では3つ下になる。この当時の交流はまったくない。
子供の頃から「知能がとても進んでいた」(母ルイーズ・談)ジョージは、学校の成績も悪くなかった。当然のように、優秀な子が入るインスティチュート中学に入学。1年先輩にポールが居たのである。ジョンは、クオリー・バンク中学の4年だった。

ジョージが真面目に勉強をしていたのは僅かな期間だった。授業は、教師が読み上げるのを書き取るということが多かったようなのだが、彼にはこれが気に食わなかった。
「教員養成所を出たばかりのバカみたいな奴が読み上げるのを一生懸命書き取るなんてくだらないったらないよ。無駄なことだ」
当時の彼がそのような言葉で反発していたかどうかは解らないが、とにかく学校に対する反発は強かったようだ。
「いろいろなことが僕をうんざりさせた。僕はただ自分自身であろうとしただけだ。教師たちは、すべての人間を画一的なキャンディの粒に変えようとするんだ」

彼の反抗心は、ジョン・レノンとは違う形で現われた。ジョンが、ケンカに明け暮れるトラブルメーカーだったのに対し、ジョージは、服装や外見で周囲を驚かせたのだ。
日本流にいえば、カブキものである。「歌舞伎」は、もともとは「かぶく」という言葉から出た言葉。「かぶく」とはすなわち、異様な身なりをすること。人の目につく衣裳を身につけることなのである。

ポールの弟、マイケルの記憶によれば(彼も同じ中学だった)まだ誰も長髪にしていない頃から、ジョージは髪を長くしていたという。
「あの子は大きく盛り上げた髪の毛の上に、ちょこんと帽子をのっけて学校に行きました。もの凄く細いズボンを履いてね。こっそり私のミシンでズボンを細めに縫い直していたんです。ブレザーの下に派手な色のチョッキを着て行くこともありました」(母ルイーズ・談)
「洒落た服を着ること、人と違った格好をすること、それが反抗の形だった。学校なんか何とも思っていなかった。僕は何とか個性を失わずにいられた。僕は教師達に理解されなかった。今にして思えば、それが嬉しいね」

当然ながら、ジョージは教師たちからの目の敵にされた。彼もまた、ジョンとは違った形のトラブルメーカーだったのだ。だが4年生になったころから、ジョージは、少々態度を改める。
「冷静にしていること、沈黙していることが一等いいとわかったんだ」ジョージが落ち着いたのを見て、母のルイーズは安堵した。なにしろ中学に進んだのは彼だけだったのだ。ジョージは、ハリソン家の期待の星だった。

教育を安定した職業を得るために必要なものとして考えたのは、当時の親達ならば、ごく普通の考え方である。海から陸の生活に変えた時、就職難で苦労したハロルドが、わが子がいい学校を出て、いい職業に就くことを願うのは当然のことだった。だが、夫人のルイーズは、そうした考えに凝り固まることは無かった。明朗快活なこの女性は、常識程度にジョージをいさめることはあっても、結局は、どんな時でも彼の味方をしたのである。

彼女は、音楽やダンスが好きだった。市バス従業員社交クラブで、初心者のためのダンス講習会を10年も続けたというから、相当なのめりこみようである。
ある日、それまで音楽に殆ど関心を示さなかったジョージが、ギターを始め時、彼女はこれを大いに喜んだようである。
ジョージは誰にも教わらず、独学でそれをものにしようとしたが、なかなかうまく行かなかった。
「私は言いました。『大丈夫よ、大丈夫よ。とにかく続けなさい』ジョージは指から血が出るまで続けました。午前2時とか3時まで練習についてやったこともあります。そのたびにジョージは『ダメだよ。モノにならないよ』と弱音を吐きましたが、私は『大丈夫よ、大丈夫よ』と励まし続けました」

「ママは本当に僕を励ましてくれた。僕のしたいことを絶対にけなさなかったのが最大の励ましだったと思う」
こうしてジョージ・ハリソンは、少しずつ、ギターの腕前を上げて行くのである。

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