Episord 22 E.プレスリー

 「すごい衝撃だった。落ち込むたびにレコードを聴いていた。レコードというものがどういう仕組みなのか解らない頃だったので、まるで魔法のようだった。『オール・シュック・アップ』はきれいだったなあ!」(※「オール・シュック・アップ」日本のタイトルは「恋にしびれて」)
エルビス・プレスリーに対するポールの想い出である。

ご多分に洩れず、ポール・マッカートニーもまた、エルビスによる影響が大きかった。その頃の若者は、それまでにあった流行り歌を聴くには聴いたが、“熱狂的”になったとは、とても言えなかった。さほど魅力的とも思えない歌手達が、綺麗な衣装を身にまとい、愛想のいい笑みを浮かべながら嫋々と歌う恋歌のたぐいは、若い女性向きのものだったのだ。
若者にとって最初のショックは、ビル・ヘイリーと彼のコメッツ Bill Haley and His Cometsだった。1953年に彼らが出した「クレイジー・マン・クレイジー」は、ビルボードにランクインした最初のロックンロールと言うことができる。
ロック史上にその名を残すのは、1955年の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」だ。これは7月9日にヒットチャートの1位になるや、その後8週もの間、トップの座に君臨した。

これこそは革命であった。この曲は、それまでにあった流行り歌とは明らかに一線を画していた。
校内暴力をテーマにした最初の映画と言われる「暴力教室」のサウンドトラックとして使われたのだが、この映画自体、教育団体、PTAにはショッキングなものであり、日本では上映禁止運動まで起きたというものだった。後に「コンバット」のサンダース軍曹役で広く知られることになるビック・モローが不良少年のボスとして出演している。
映画の内容もさることながら、わくわくするようなビート、それまでになかった素早いコード進行とギターソロ、ビル・ヘイリーの独特のクセのあるヴォーカルは、若者たちを文字通り熱狂させた。

上映中にこの曲が流れると、若者は踊り出した。イギリスでは、若者がそのまま暴徒と化して荒れ狂うという前代未聞の社会問題とまでなったのである。
残念だったのは、ビル・ヘイリーの年齢とルックスだった。このヒットを飛ばしたとき、彼は32歳。十代を熱狂させるヒーローとしては、いささか年をとっていた。彼自身はまったく普通の人である。額に垂らした巻き毛のヘアスタイルが特徴といえば特徴だった。
1925年7月6日、ミシガン州ハイランドパーク出身。本名はウイリアム・ジョン・クリフトン・ヘイリー。42年にはヨーデル歌手として地方を回っている カントリー・バンドと一緒に仕事をするうち、ソロ・レコードを出した。48年にはウエスタン・バンドを結成する一方、ペンシルベニア州のラジオ局でDJもやっている。

その後、カントリー&ウエスタン、ヒルビリー、リズム&ブルースといった音楽を融合したような格好で、ロックンロールへと結実していくのだ。彼自身に、特にカリスマ性があったとは思えない。何が売れるかという、商業的な感覚を研ぎ澄ましていた歌手というのが、当たっているのかも知れない。
歴史に残る「ロック・アラウンド・ザ・クロック」だが、1954年にこの曲がリリースされた時の扱いは、「サーティーン・ウーマン」のB面である。まったく評価の対象外だった。翌年の5月、「暴力教室」の上映に合わせて、A面として再リリース。
これで全てが変わるのである。そこそこのヒット曲だったものも、再評価され、彼らは一躍トップに立つ。

その後に登場するのがプレスリーだった。プレスリーはヘイリーに無いものを全て備えていた。若さとセックスアピールは、ヘイリーにはどうにもならなかった。
若者は、プレスリーという存在そのものに夢中になるのである。激しく腰をくねらせ、盛んに首を振りながら歌うそのさまは、それまでの歌手にはまったく見られないスタイルだった。

彼はしばしばギターを抱えて歌ったが、それは演奏のためというより、歌うための小道具だった。それなのにカッコよく見せたのだから、これはもう生まれついての才能というよりほかないだろう。彼が初めて「エド・サリバン・ショー」に登場した時、カメラマンは、プレスリーの下半身を映さないように指示されたという。
腰を振って歌う彼は、エルビス・ザ・ペルビス(Elvis the Pelvis)と呼ばれたのである。彼の登場で、やや小太りで、ルックスもすでに中年のように見えたビル・ヘイリーはトップの位置から引きずり降ろされたのだった。

ポール・マッカートニーも、この頃の若者と同じようにエルビスから影響を受けた。プレスリーがそれまでの歌手に無かったことと言えば、服装等も若者に影響があったと言うことではなかろうか。ビル・ヘイリーなどは、スーツに蝶ネクタイといった、いかにも芸人というスタイルだったが、エルビスは、服装から髪形に至るまで若者を変えてしまった。ポールもそうだった。

「不良になるのではないかと心配した。細いズボンを履いてね。いくら言ってもダメだった。髪もその頃から長めだった。床屋に行っても、ほとんど変わらないので、『今日は休みだったのか』と言ったものだ」(ジム・マッカートニー)
早熟だったポールは女の子に関しての経験が、誰よりも早かった。そして、それを学校で自慢して喋り回ったという。

「悪い奴だったよ、僕は」

1956年の夏...
ポールは、アイバン・ボーンに仲間がウールトン教会で演奏しているので、一緒に行かないかと誘われる。
「そうかい。じゃ、オレも一緒に行こうかな。女の子を引っ掛けるのも面白いしな」

ポールがそのバンドを見た印象はこうである。
「悪くはなかった。でも、演奏の仕方をまだあまり知らないようだった。ただガチャガチャ弾いているという感じだった」

「ショーが終わって、僕は連中に会いに行った。世間話をしたり、僕の腕前をみせてやったりした。『トウェンティ・フライト・ロック』や『ビー・バップ・ア・ルーラ』なんかを弾いてみせた。それからリトル・リチャードのものまね。要するに、全部やってみせたわけさ」

「ほろ酔い加減のあんちゃんが、酒臭い息を吹き掛けてきた。僕が演奏している時にね。『なんだろ、この酔っぱらい』と僕は思った。そしたらそいつは『トウェンティ・フライト・ロック』は好きな曲だと言った。こいつはちょっと詳しいかなと思った」

「それがジョンだった。僕は14でジョンは16。だからすごい大人に見えたよ」


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