Episord 21 ポール・マッカートニー |
ジム・マッカートニーは1902年の生まれで、兄弟姉妹7人という家庭環境だった。14歳の時から紡績関係の仕事に就いている。綿花輸入卸商で使い走りの少年だった彼は、28歳になると綿花のセールスマンとなる。 |
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残されたジムは途方に暮れた。14歳と12歳という思春期の子供2人を抱えて、53歳の彼は経済的にも、精神的にも苦しむことになるのだ。 実際、この家では母親のメアリの稼ぎの方がずっと多かったのである。ジムの妹、ミリーとジニーが家の中の片づけなど、何かと世話をしてくれた。 だが、ジムは親としてどういう態度をとればいいのかと悩むのである。 「妻が生きていた頃は、私は子どもたちを叱る役目をしていた。必要とあらば、罰も加えた。それを取りなすのが妻の役割だった。ところが、妻が居なくなって、私は、父親であるべきか、母親であるべきか、両方を兼ねるべきか、あるいは子どもたちを頼りにして友達として助け合って行くべきなのか」 ジムは真面目な男だった。だからこそ悩みも深かったのだろう。事あるごとに、辛抱強く、2人の男の子に語りかけた。 穏健 moderation と寛容 tolerantion が大切だというのが彼の哲学だった。 2人の息子は、何度も何度もこの話を聞かされたため、「“エーション”を2つ持ってパパが来た」と笑っていたと言うが、やはり父親のこの態度は、何らかの影響を子供達に与えていたようだ。 ポールは、ジョンと同じように、規則に縛られた学校生活を嫌悪するようになっていたが、だからといって、すべてを投げ出し、それに抵抗するというようなことはしなかった。 彼は、その気になれば、嫌でたまらない勉強にも手を着けることが出来た。何ごともテキパキとやり遂げる態度は、亡くなった母親から受け継いだものだったのかも知れない。 父親のジムは、少年時代に独学でピアノを弾いていた。14〜15歳の頃、中古でもらったピアノをデタラメに弾いていたというのだが、音楽的センスがあったのだろう、そのうち耳で聴いた曲は大抵弾けるようになり、「人前で恥をかいたことは一度もなかった」と言う。 彼の記憶によれば、その中古ピアノには「NEMS」というマークがついていた。(「ノース・エンド・ミュージック・ストアーズ」の略であり、あのブライアン・エプスタインの父、ハリー・エプスタインが創設した会社だ)17歳のジム・マッカートニーは、ラグタイム・バンドの一員としてアルバイト活動をしていた。 家庭を持ってからのジムは、もうバンドを辞めていたが、家にはピアノがあり、よく弾いていたと言う。 「私がピアノを弾いてもポールは無関心だった。ラジオの音楽を聴くことは好きだったけど。そのうち突然、ギターが欲しいと言ったんだ。どういう切っ掛けきっかけかは解らないけどね」 弟のマイケルによると、もう少し具体的になる。 「母が亡くなった直後から、それが始まった。憑かれたようにギターに夢中になった。母を亡くしてギターを見いだしたのだろうか。たまたまその時期にギターというものを知ったということなのだろうか。それが一種の逃避になったんだろう。でも、何からの逃避だったのかな」 |
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