Episord 21 ポール・マッカートニー

 ジム・マッカートニーは1902年の生まれで、兄弟姉妹7人という家庭環境だった。14歳の時から紡績関係の仕事に就いている。綿花輸入卸商で使い走りの少年だった彼は、28歳になると綿花のセールスマンとなる。
当時、紡績業は隆盛を極め、リバプールは綿花の輸入で賑わっていた。つまり、ジムはどちらかといえば恵まれた環境で生活していたわけである。大戦が始まると綿花取引所は閉鎖されるが、今度は技術者として戦闘機のエンジンを造っていたネイピアズという会社に勤めている。彼がそこで具体的にどのような仕事をしていたのかは不明だが、戦争という状況下でもあり、働き手としての優秀さを認められたことは間違いない。

1941年、39歳のとき、メアリ・パトリシアと結婚。
1942年6月18日、ジェイムズ・ポール・マッカートニーが誕生。彼は、リバプールの病院の個室で生まれている。
戦争中に病院の個室で誕生とは贅沢な環境で生まれたものだが、これには事情があった。
メアリはナースであり、以前、この病院の産婦人科に勤めていた。ジムと結婚した時に病院を辞め、保健師として働いていた。出産のために元勤務していた病院にやって来た彼女は、特別待遇を受けたのである。
ジムは兵役にとられなかった。子供の頃の事故で、片方の耳が聴こえなかったのである。それに加えて第二次対戦では、年をとり過ぎていた。ネイピアズの仕事がおしまいになると、彼は市の清掃課の監督として勤務した。
 
1944年、次男マイケルが誕生。
ジムの給料は、全盛時の紡績関係の仕事に比べると薄給だったため、メアリは保健師に戻り、その後2地区を受け持つ助産師となる。彼女は生真面目な努力家で、ジムに言わせると「必要以上に働く」女性だったと言う。
2人の男の子はそれぞれに個性を発揮した。次男のマイケルは議論好きで、何処か騒がしい印象であるのに対し、長男のポールは、物静かな子供だった。
それでいて、与えられたことはテキパキとこなす。この辺りは母親によく似ていた。やがてポールは、リバプール・インスティチュートという中学に入学する。これはリバプールでも一等有名な中学校であり、入学後も成績優秀な生徒だった。
しかし、彼はかなり早熟な少年でもあったらしく、女の子に興味が行くようになる頃から、勉強をしなくなるのだ。

「学校の勉強にどういう意味があるのか、説明してくれた人は、誰もいなかった。父は卒業証書が社会に出てから役立つとか、そういうことしか言わなかった」
「僕は時々盗みをやった。店のオヤジの隙を盗んでタバコなんかをね」
勉強しなくなったポールだが、1953年のエリザべス女王戴冠の年に作文を書いて、「特別戴冠賞」なるものを受賞している。頭の回転が早く要領のいい少年像が浮かんで来る。
このころのポールは、すこし肥満気味だった。
弟のマイケルとケンカをすると、決まって「デブ」と言われたのである。

ポールが14歳の時、母親が体調を崩した。胸に痛みを感じ、それが何日も続いた。年齢的なこともあり、本人は更年期障害であろうと考えた。事実、何人かの医者に診てもらったが、大したことはない。更年期障害だろうという診断だったのである。
だが、胸の痛みは次第に強くなっていく。メアリは専門医の診断を受ける。癌だった...

弟のマイケルは帰宅し、家に入ると母親が泣いているのを目撃する。彼は自分達兄弟が何か悪いことをしたのが、いけなかったのだろうかと思ったという。
手術が行われたが、彼女は亡くなった。
知らせを受けた2人の子供はそれぞれのベッドで泣いた。

「もし母を返してくれるのなら、僕はいつもいい子でいますとお祈りをした。その結果、宗教は馬鹿げていると思うようになった。だって、一等必要なときに、お祈りが役に立たなかったんだもの」(ポール)

残されたジムは途方に暮れた。14歳と12歳という思春期の子供2人を抱えて、53歳の彼は経済的にも、精神的にも苦しむことになるのだ。
実際、この家では母親のメアリの稼ぎの方がずっと多かったのである。ジムの妹、ミリーとジニーが家の中の片づけなど、何かと世話をしてくれた。
だが、ジムは親としてどういう態度をとればいいのかと悩むのである。

「妻が生きていた頃は、私は子どもたちを叱る役目をしていた。必要とあらば、罰も加えた。それを取りなすのが妻の役割だった。ところが、妻が居なくなって、私は、父親であるべきか、母親であるべきか、両方を兼ねるべきか、あるいは子どもたちを頼りにして友達として助け合って行くべきなのか」
ジムは真面目な男だった。だからこそ悩みも深かったのだろう。事あるごとに、辛抱強く、2人の男の子に語りかけた。
穏健 moderation と寛容 tolerantion が大切だというのが彼の哲学だった。
2人の息子は、何度も何度もこの話を聞かされたため、「“エーション”を2つ持ってパパが来た」と笑っていたと言うが、やはり父親のこの態度は、何らかの影響を子供達に与えていたようだ。

ポールは、ジョンと同じように、規則に縛られた学校生活を嫌悪するようになっていたが、だからといって、すべてを投げ出し、それに抵抗するというようなことはしなかった。
彼は、その気になれば、嫌でたまらない勉強にも手を着けることが出来た。何ごともテキパキとやり遂げる態度は、亡くなった母親から受け継いだものだったのかも知れない。

父親のジムは、少年時代に独学でピアノを弾いていた。14〜15歳の頃、中古でもらったピアノをデタラメに弾いていたというのだが、音楽的センスがあったのだろう、そのうち耳で聴いた曲は大抵弾けるようになり、「人前で恥をかいたことは一度もなかった」と言う。
彼の記憶によれば、その中古ピアノには「NEMS」というマークがついていた。(「ノース・エンド・ミュージック・ストアーズ」の略であり、あのブライアン・エプスタインの父、ハリー・エプスタインが創設した会社だ)17歳のジム・マッカートニーは、ラグタイム・バンドの一員としてアルバイト活動をしていた。

家庭を持ってからのジムは、もうバンドを辞めていたが、家にはピアノがあり、よく弾いていたと言う。
「私がピアノを弾いてもポールは無関心だった。ラジオの音楽を聴くことは好きだったけど。そのうち突然、ギターが欲しいと言ったんだ。どういう切っ掛けきっかけかは解らないけどね」

弟のマイケルによると、もう少し具体的になる。

「母が亡くなった直後から、それが始まった。憑かれたようにギターに夢中になった。母を亡くしてギターを見いだしたのだろうか。たまたまその時期にギターというものを知ったということなのだろうか。それが一種の逃避になったんだろう。でも、何からの逃避だったのかな」

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