ビートルズ ショート・ストーリー 第1話 「サムシング」 押葉真吾/作 No.4 |
||
僕はアーチャの部屋の細部まではっきりと思い出すことが出来た。 男の子の部屋のようにシンプルな部屋、女の子には珍しくCDデッキとダブル・カセット・デッキはラックに収納され、ラックの上部にはターン・テーブルが王様のように君臨していた。 本棚の中にも小説などに混ざり、それとなくビートルズ関連のものが並んでいた。その他には壁に貼られた"WITH THE BEATLES"の4人。そしてなんといっても多くのモノラル盤...僕は自分の持ちうるかぎりの資料で"ABBEY ROAD"以前はモノラル・レコーディング主体で、ステレオはモノラルを元に作られていたこと、よってビートルズがOKを出していたのもモノラル・ミックスであったこと、さらにジョン・レノンはモノラル・テイクを絶賛し、ステレオにミックスしなおしたバージョンを「ジョージ・マーティンは何故、ドラムを片方に寄せたりするんだ?」とお気に召さなかったらしいこと、などを知った。 「ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは終始モノラルにこだわり、ステレオは認めなかった。それは彼の難聴に原因している...」とも、その本には書かれてあった。しかし、ビーチ・ボーイズの複雑なコーラスやビートルズをも圧倒した"PET SOUNDS"をブライアンがほとんど一人で作り上げたことを考えると、それは嘘だろう。 ジョージ・ハリスンはスピーカーの向こうで、まだ"Something"を唄っている。 「I don't know, I don't know...」 まさに僕には解らない。アーチャは何故あんなに泣いてしまったのか。 次の日、必死で謝る僕にアーチャはいつもの笑顔で応えてくれた。相変わらず二人の話題はビートルズで、アーチャは主にジョンのこと、僕はジョージの話題で盛り上がった。 あれからお互いの家に行くことはなくなってしまったが、僕のお願いでアーチャは全てのモノラル・バージョンのCDを貸してくれ、僕はせっせとダビングした。レコードはアーチャがカセットにダビングしてくれた。 "Hey Jude"みたいにエンディングが長いものや"When I'm Sixty-Four"のようにテープ・スピードが戻されていてリアルな歌声が聴けるもの、"Tommorrow Never Knows"のようにミックスが違い印象が変わるものなど、こんなにもいっぱいバージョン違いがあることや、それによって曲の印象が変わることにもビックリした。おかげで僕もいっぱしのビートルズ・サウンド通になってきた。 Mr.ロックン・ロールのジョン・レノンが気に入るわけだ。 "Happiness Is A Warm Gun"や"Yer Blues""Everybody's Got Something To Hide Except Me And My Monkey" なんかのジョンがつくるロックン・ロールは断然モノラルの方がカッコイイ。ジョンの頭の中にあったのはきっとこのサウンドなんだ。 カセット・デッキを持っていなかった僕は、友人に頼んでカセットからMDにダビングしてもらっていた。 僕はいつかレコード・プレイヤーを買ってアナログ盤を聴いてみたいと思った。ステレオ・バージョンと圧倒的に違うのは、モノラルにはバンドの親密な一体感があることだ。 でも逆に、それ以上アーチャと親密になることはなかった。 |
一度だけアーチャの誕生日の夜に二人で出掛けたことがあった。いつもの狭い道で僕は彼女に「好きだ...」と打ち明けた。でも、アーチャがなんの反応も示さなかったので、僕は恥ずかしくなってその言葉を隠してしまった。 あれからどれくらい経っただろう...仕事の打合わせで取引先と待合わせた喫茶店。ふとあの曲が鳴り響いた。 彼女の仕草の中にある何かが 僕を惹きつけて離さない 彼女がささやく言葉の何かが 僕を離れられなくする "Something"僕は右ひじをテーブルにつけ、右耳をふさぐ格好で、行儀悪く久し振りに大好きなこの曲を聴いた。 そしてあのリフレイン「I don't know , I don't know...」 ジョージが唄うリフレインはカチッ、カチッと数々の出来事をリンクさせた。 そうか!アーチャは右の耳が聞こえなかったのだ。 だから僕が彼女と会った最後の日に言ったあの言葉も聞こえなかった...「なあに?」と左の髪をかき上げる仕草 ...真っ赤なモノラル・レコード...それらの光景が驚くほど鮮明に僕の眼前にフラッシュした。 ふいに目頭が熱くなり、涙が溢れてきた。 「おはようございます」その時取引先の男が現れたが、僕は涙を悟られないように、煙草を吸ってくると言って外へ出た。 その夜、右耳をふさいでもう一度"Something"を聴いてみた。そうすると心の半分が閉じられているようで、その部分だけが、そばにあっても決して触れることの出来ない夜の闇のような静かに感じられた。片耳をふさいだ状態から聞こえてくるサウンドは、ひどくアンバランスな感じがしたが、こうすることで少しでもアーチャの心とあの頃の自分に近づける気がした。 モノラル・バージョンに掛かるエコーのように想い出は輪郭を緩め、心に遠く響いた。 |
|
ザ・ビートルズ・クラブ BCC 2002年3月号 P.S I LOVE YOU より引用 |