0〜25 51〜75 | |
026 '06,10,07 皮肉屋ジョンの本質 | |
ジョンはよくウィットに富んだ皮肉屋だと言われた。でも、本当は挑発するのが好きなだけ、しかも見せかけだけに過ぎない場合が多かった。みんなと同様にね。自分のもろさを隠すためわざとそういうふりをしていたんだ。 ジョンはとても繊細で、目を開いて人生を見据えていた。知的で、不正を許さないという人間だった。外見はとてもそう見えないんだけど、実際のところジョンはとても内向的で人見知りするタイプだった。そして最小限のことしか言わない。彼の言葉はウィットに富んでいるが鋭く、時には皮肉っぽく相手に突き刺さった。そんな風だからジョンは怖がられたりすることもしばしばだった。 by C・フォアマン | |
027 '06,10,08 「In My Life」ポール作説 | |
「In My Life」巷ではとりあえずの処ジョン作となっていますが、ポールの言い分によると殆どが彼の作ということです。「メロディは全部僕が書いた覚えがある。分析してみても、まさに僕らしい曲だと思う。歌詞ももちろん僕だけど、曲の構成はいかにも僕らしい。ジョンには、『お茶でも飲んで休んでいて。十分あれば一人で仕上げるから』と言った記憶がある。メロディックでありながらマイナーやハーモニーを入れてブルース風にしようと思ってね。そして部屋に戻って『出来た!いい曲だと思う。どうかな?』とジョンに聴かせたら、『いいね』と言うんで、そこからそのメロディを使って残りのヴァースを二人で埋めていったんだ」 | |
028 '06,10,10 「In My Life」ポール作説 その2 | |
「共作した曲は、大抵はジョンが最初のヴァースを作っていたね。曲の方向性が決まる指標のようなものだから、それだけでも十分なんだけど。要するに型板というかね。僕の記憶では、二人で書いて、後でイントロも加えた。これも僕が考えたと思うけど。だから、この曲はジョンのインスピレーションを基に僕のメロディとギター・リフで出来た曲だ。二人で仕上げた素敵な曲をジョンが歌った訳さ」一方、ジョンはプレイボーイ紙にこう語っている「ポールはミドル・エイトのメロディを手伝ってくれた。歌詞はすべてポールが到着する前に完成していたよ。曲に関して彼が貢献してくれたのは、ハーモニーとミドル・エイトの部分だ」 | |
029 '06,10,11 ビロードのような声 | |
その昔「Girl」の寸評について書かれていた記事の事を思い出します。「ジョンの声はまさしくビロードのよう」誰が書いたか忘れましたが、当時うまい表現だなと思いました。「ビロードのような声」言い得て妙です。全世界にビートルズはもちろん、ジョン大好き人間は星の数ほどおり、彼のように歌いたいと思うファンもたくさん居る中、一人くらいはまるでそっくりといった人がいても不思議ではないと思うのですが、やはりジョンはジョン。ただ一人の為の声のようです。息子のジュリアンが一番似ているのかも知れません。 そのビロードの声がキライだと言ったのはジョン本人でしたが、何故...? |
|
030 '06,10,14 んな、勿体ない | |
ビロードの声がキライですとぉ!んな勿体ない(笑)今までのロックシーンやポップシーンであのようなハスキー&セクシーで魅力的な声の持ち主は誰一人としていないと思います。しかし、何故嫌だったんでしょうか?たぶん最初は気に入ってたと思いますよ、絶対。彼の声の特徴を生かした切なくも甘い歌い廻しを武器に女性達をメロメロにさせていた事は事実で、ジョンもそこの処は良く知っていたと思います。 で、何故いやになったのか?これはきっと中期以降の声にそう思ったのではないでしょうか?初期の頃とは違い声が妙に幼く聞こえ、またこれ以降の曲のイメージに合わなかったからではないのでしょうか。 |
|
031 '06,10,16 A Hard Day's Night | |
「車で家に帰る途中、ディック・レスターがリンゴの言ったことから"A hard day's night"を映画のタイトルにしようじゃないかと言い出した。それは僕が「IN HIS OWN WRITE」の中で使った言葉だった。でも、それはリンゴが不用意に言ったことで、おかしな言い間違いだったんだ。で次の朝、僕は曲を持っていったんだ。その頃、僕とポールの間で、どっちがA面をとるか、ヒット・シングルを生むかということで、ちょっと張り合っていたんだ。初期の映画のタイトル曲も他のも、ほとんど僕がシングルをとっていた。僕自身それに気がついて気になりだした頃からだな、ポールがグループの中心になってきたのは。 | |
032 '06,10,17 ジョンはギターが上手かったのか? | |
ジョンはギターが上手かったのか?上手いと言えば上手いと言えますが、どちらかと言うと「好きだった」と言った方がピタリと来るのではないかと思います。とは個人的な意見ですが。多分技術的な観点から言えばポールが上だったでしょうが、独特なリフ「I
Feel Fine」「Day Tripper」「Paperback Writer」などはジョンが考え出したものだと思います。余程ギターが好きでいじくり回していたのでしょうね、とは言え誰しもがいじくり回しただけで思い付くものではないと思いますが(笑)ジョンはリフを編み出す名人でした。 特に「I Feel Fine」は圧巻で、J-160Eを使ってのリフプレイはジョンの技術の高さを証明しています。 |
|
033 '06,10,18 Get Backのリード | |
「I Feel Fine」おそらくこの頃がジョンのギタープレイヤーとしての最潮期だったのではないでしょうか? あの曲をJ-160Eで弾いていたというのを知った時のショックは大きかったです。「ジョージ、このリフはこうやって弾くんだ、解るかい?」きっとそう言ったに違いありません(笑)そんな彼も「Get Back」でのリードギターではあまりよろしくない評価をされたようです。ヘタウマを狙って弾いているのか、実際に指が動きにくくなっていた為か真実は定かでありませんが、薬物常用の副作用と言いますか、後遺症でジョンは満足に指を動かせなかったからだといった噂を耳にしたことはあります。 |
|
034 '06,10,19 ジム・モリソン? | |
ジム・モリソン? シド・ヴィシャス? そういう連中を崇拝する人たちがいる。 僕にはわからない。 僕は生き抜いている人たちを多いに尊敬するよ。 |
|
035 '06,10,20 ジョンのノート | |
今年の4月、ジョンが12歳のころに詩やスケッチを書きとめていたノートが競売に掛けられ12万6500ポンド(約2,650万円)で落札されました。「マイ・アンソロジー」と名づけられた10ページのノートには、さまざまなスケッチの他、英作家ルイス・キャロルの詩「ウォーラス(セイウチ)と大工」がイラストで描かれているそうです。英競売会社クーパー・オーウェンによれば、ジョンはこの詩からイメージを膨らませてビートルズの名曲「アイ・アム・ザ・ウォルラス」を作ったとされ、このノートは「発展途上の芸術的才能が満ち溢れた見本のようなもの」と述べています。なお落札者の身元については公表されていないとのことです。 | |
036 '06,10,21 ファンがショックを受けるのでは? | |
映画出演のために髪を短く切ったジョンに対してのインタビューに応えて。 さあ、どうかな。初めは奇異に映るかも知れないが。しかし、これがとても役立つことがあるんだ。僕が町を歩いていても誰もビートルズと気が付かないからだ。新聞記者もファンもどっちもだ。町を自由に歩けるということはなんて楽しく、素晴らしい事か!ところが先日ポールとパリの町を歩いていたら、例の事がまた始まった。ファンがポールの髪を目ざとく見つけると僕等の周りに殺到して来たんだ。そしてポールの隣にいる僕の事もビートルズに違いない、みたいな目つきで見ていたよ(笑) |
|
037 '06,10,24 命名「ビートルズ」 | |
「The
Beatles」はジョンが考えたというか、彼の夢の中でパイに乗った男が出てきて「お前らはビートルズだ!それもEがAのな!」と言ったとか。でも、これも怪しい話ですよね。 逸話作りの名人、ジョンならではの後付けのジョークなんじゃないかと思うんです。 この「Beetle」すなわち「カブトムシ」よくよく見てみると何かに似てますよね。もう、お察しの方もおられると思いますが、私、以前からカブトムシって裏返したギターにそっくりだと思っていました。ひょっとしてジョンは倒したギターを見てひらめいたんじゃないのでしょうか? ※ジョンをクリックしてみて下さい。 |
|
038 '06,10,25 ゴシップ | |
僕達のようなショウ・ビジネスで働く者にとって、無くては困るモノ、けれどあり過ぎても困るモノ...それが「噂」「ゴシップ」だ。他の多くのスター達がそうであるように、僕達もゴシップには悩まされ続けている。でも、このゴシップが全く無くなっちまっても困りものだ。一般の人々に噂もされない芸能人なんて、死んじまったも同然だと思う。僕がまだ西ドイツのハンブルグで歌っていた頃なんかは、この「噂」を作ろうとして、かなり悪どいこともやったっけな...しかし、今では全くの逆だ。「噂」や「ゴシップ」なんてモノがこの世から無くなってしまえばいいとさえ思っている程だ。 | |
039 '06,10,26 ゴシップ−2 | |
皆さんは僕が何回結婚して、何回離婚したか知っているかい?そんな事は全く簡単。アメリカやイギリスのゴシップ記事をパラパラとめくってみればすぐ解る。毎月2回ないし3回、僕は妻のシンシアと別れ、新しい女性と−−−その女性は時にはブロンド、時にはブルー・ネットなんだけれども−−−結婚していることになっている。まるでアラビアのハレムの王様みたいなもんだ。実際の話、僕は新しい妻になった女性に会ったこともなければ話しをした事もない。僕の妻はいつまでたってもシンシアただ一人だ。 65年4月のインタビューに応えてのものですが、彼にも先は見通せなかったようです。(当たり前) |
|
040 '06,10,27 ハーモニカ | |
ジョンが最初に手にした楽器はハーモニカだったと言われてますよね。叔父に買ってもらったものだということですが、かなり気に入って練習していたのではないでしょうか。ギターを手に入れるまではこのハーモニカが彼が表現出来る唯一の楽器だったんでしょうね。でも、あの「Love Me Do」のレコーディングの時は唇から血が出るくらい練習したと言います。また「Little Child」のハーモニカなんか圧巻ですね。天才的でさらに鬼気迫るモノを感じさせます。ブルースっぽいハーモニカの最後は「I'm A Loser」でしたかね。これ以降は「The Fool On The Hill」でのバスハーモニカの演奏くらいになってます。 | |
041 '06,10,29 ジョンとリンゴ | |
「結局、僕達はドイツに出掛けて行った。ハンブルグのカイザーケラーでよくビートルズと往き違ったものさ。演奏中、僕等はクラブの後ろに立ってお互いにリクエストし合った。ジョンは毎夜僕に『アレー・オープ』を歌ってくれって頼むんだ。ジョンと僕はお互いに気の合った間柄だった。僕達は朝、クラブが閉店すると、よく朝食を共にしたものだった。そして僕達はビートルズがリヴァプールに戻って来た時に再び会った。ある日彼等のドラマーのピート・ベストが病気になった時、キャバーン・クラブのランチ・タイム演奏でビートルズの為にスティックを持ってくれないかと云われたのさ。 by リンゴ・スター | |
042 '06,10,31 誰がピート・ベストをやめさせたのか | |
ビートルズのメジャーデビュー直前に突然解雇されたピート。その真相は未だ闇の中です。真相を知っているのは今やジョージ・マーティンとポールだけです。様々な説がありますが、本当のところどうだったんでしょうね。彼が最後までマッシュルーム・カットを拒否したという経緯からも、私が思うには彼だけが異質な存在だったからじゃないのでしょうか。他の3人とは合間見入れなかったのかも知れません。リンゴと知り合い、ピートの代役として付き合いだして行く中で、他の3人は同じ思いに駆られたのかも「リンゴが欲しい」当時ブライアンは泣きながら解雇を宣告したといいます。 | |
043 '06,11,01 「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」 | |
ジョンによる「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」でポールへの辛辣な攻撃がなされた事について、後にジョンはポール攻撃への意図を否定しましたが、この曲の半分の歌詞はヨーコが書き、クラインも数行付け加えていたと言われています。これが録音されたティッテンハースト・パークは(ジョンとヨーコの邸宅)はリンゴ、ジョージ宅からそれほど離れておらず、レコーディングに参加したジョージのほか、リンゴも遊びに来ていたのですが、ここを訪れたOZマガジン発行人であり、ジョンの友人の一人でもあるフェリックス・デニスは次のような証言をしています。 | |
044 '06,11,02 最後に諭したのはリンゴ? | |
「歌詞が出来上がるにつれてリンゴは段々不機嫌になり、気分を害したのか、『もういいじゃないか、ジョン』と言ったのを覚えています。ジョンはいつものように墓穴を掘り続け、他人のことはお構いなしでした。ヨーコが殆どの歌詞を書いたというのが事実です。ジョンに歌詞を見せるためにスタジオに駆け込む彼女の姿を見ていましたから。ほかのミュージシャンは時々迷惑がっていましたが、ジョンは『いいね』とか言って、歌詞に付け加えるのです。ジョンが一行書くと今度はヨーコが一行書き、二人で爆笑するのです。内容はとても幼稚で下品ななもので、最後は誰かが諭したのか、常識的なものにはなっていました。 | |
045 '06,11,04 流行の最先端 | |
当時の彼等の所有していた自動車は最高級車でした。そりゃ、当たり前ですよね(笑)使い切れないくらいのお金があるのですから、フェラーリ、ロールスロイスなど最高で最先端な車を所有していました。逆にMINIのような実用車を愛用していたのもジョンらしいですね。現在でも若者たちに人気の車のウインドウに貼り付けるスモークフィルムは、ジョンが移動中のプライバシーを守るために自ら考案・発注し、自身のロールスロイスに貼り付けたのが最初だと言われています。。ジョンはこのフィルムを自身のMINIにも貼っており、フロントガラスにまで貼り付けようとして警察に指導されたのもジョンが世界で最初だそうです。 | |
046 '06,11,06 スチュアート・サトクリフ | |
"スチュアート・サトクリフ" ジョンにとってはかけがえのない友人だったでしょうね。負けず嫌いのジョンにしては珍しく、スチュには一歩譲るような感じがあったと思います。特に芸術的な才能に関して自分はスチュの足元にも及ばないと確信していたのでしょう。でも、そんなことはどうでもよく、血を分けた兄弟のように思っていたのかも知れません。ジョンはいつまでもスチュと共に居たかった。だから、まるで素人のスチュを無理矢理バンドに引きずり込んだのだと思います。やれば何とかなるハズだ、俺だってここまでやって来れたのだから、きっとスチュも。でも、スチュの苦悩の表情を見て最後は諦めたのだと思います。 | |
047 '06,11,07 濃密な人生の代償?? | |
とは言え、スチュアート・サトクリフが突然亡くなった時のジョンの心情を考えると、身の毛がよだちますね。想像を絶するショックだったと思います。若い死は様々なことをジョンに投げかけた事でしょう。しかし、この出来事はジョンには避けて通れない運命的な事だったのかも知れませんね。後に兄貴のように慕っていたブライアン・エプスタインまでも彼は失ってしまうのです。人の人生の儚さをまざまざと見せつけられた思いだったでしょう。そして自身も40歳という若さで無理矢理人生を終わらされてしまうのですが。濃厚、濃密な人生を駆け抜けた代償のような感じさえ受けてしまいます。 | |
048 '06,11,08 ジョンの父親、アルフレッド | |
ジョンはあまり父親の事は話したがらない。彼の話では母親はジョンがまだ4歳の時に死に、以後はリバプールの叔母の家で育てられたのも、父親が船乗りで年中海に出ていたからだということになっていた。しかし、事実は違い、両親は彼が4歳の時に離婚し、以後18年間父親は彼を見棄てていたため、彼はやむなく叔母さんに育てられたのだ。1964年、当時週給8ポンドでホテルの労務者をしていた父親アルフレッド・レノンはジョンに近付こうとしたが駄目だった。52歳になったアルフレッドは冷淡にあしらわれて新聞社に行き自分がビートルズのジョン・レノンの父親だと名乗り出た。 by レイモンド・ピーマンズ | |
049 '06,11,10 ジョンの父親、アルフレッド−2 | |
新聞は早速このことを取り上げ、ジョンはやむなく父親と再会した。「わしは息子に何度も手紙を書いた」とアルフレッド・レノンは語る。「だが、完全に無視された。彼は数千ポンド持っていて、わしは僅かな小銭しかない。仕事もあまり出来ないし、家もない。息子が世話してくれることを望んでいる。」ジョンは以後父親の面倒をみて来たが、67年の夏アルフレッドはジョンに多額の借金の返済を頼み、その上バーの女給トルディ・ハリスと結婚したいから財政援助をしてくれるように申し入れてきた。ジョンはこれをきっぱりと断った。ジョンが援助を断ったと知るや、トルディはさっさと他の男と結婚してしまった。 | |
050 '06,11,11 だめ親父 | |
ジュリアン・レノンは自分の父親の事を「だめ親父<dud
dad>」と呼んだ。そして、自分が父親と同じ過ちを犯すことはないようにしたいと言った。ジョン・レノンの息子であるジュリアンは、殺された元ビートルズの父親は偉大なアーティストではあったけれども、立派な父親ではなかったと言っている。 「父親としては僕は全く彼に期待していなかった。父親であるという事がどういう事であるかを、全然何も知らなかったんだ。僕の事なんかより、世界中が自分をどう思っているかに気を使っていたんだよ。また彼は、あらゆる関心をヨーコにだけ向けていたんだ。」 by ジュリアン・レノン |
次のページへ Copyright(c).Cuts. all right reserved |