Episord 63 瞑想の日々

 エプスタインが亡くなってから、ビートルズは、彼がEMIとすこぶる割の良い契約を結んでくれていたことに気付かされる。既に述べたが、当時、ビートルズがレコーディングで得られるロイヤリティーは、ずば抜けてよかった。
確かにEMIとしては“売れる”ビートルズを手放したくなかったのは事実であろうが、レコード小売価格の10%が手に入るという契約は、やはりエプスタインの手腕がなくしては得られなかっただろう。

この契約を結んだときのエプスタインは上機嫌だった。
当時としては最高の条件を結べたということでもあったし、また、少なくとも1976年まで、ビートルズは曲を作らなければならないという義務が生じたわけで、それは、エプスタインにとって、ホッと胸を撫で下ろすとでもあったのではなかろうか。9年の契約期間中、彼の“生き甲斐”であるビートルズの「解散」は無いだろう。そう考えたとしても不思議ではなかった。
1976年まで、ビートルズは70曲のレコーディングすればいいのである。これは彼らにしてみれば、いかにも容易いことに思えた。しかし、実際には、エプスタインが亡くなると、彼らはグループとして行動することは殆どなくなっていくのだが。

ビートルズは、尚もマハリシによって何か精神的な飛躍が期待出来るのではないと考えていた。特にジョージとジョンは真剣だった。しかし、マハリシには少しずつ、おやっ?と思わせる発言が目立つようになって行く。
ある集まりで、若者たちの徴兵に対する疑問に対して、彼はこう言ったのである。
「私たちは国の指導者に従うべきです。国民の代表である彼らは、情報に基づく裁量権があり、正しい判断が下せる筈なのですから」
若者達にしてみれば、これは落胆させられる言葉だろう。それが何かは説明し得ないが、何かこれまでとは違った考え方、新たな道が開けるのではないかと耳を傾けていた彼らは、唖然とし、その場で席を立ってしまう者も続出したと言う。

ビートルズは、何故だかこうした情報に耳を貸さなかった。具体的な彼らの環境がもうひとつ解らないが、マハリシに関する情報が全く無かったわけではないのだ。
彼らを心配する友人から、マハリシが、インドの右翼政治家と関わりがあること、さらに金銭的な執着が全くない人間とは思えない事実も知らされている。しかし、ジョンはこれを無視した。

マハリシがビートルズを利用したことは明らかである。彼を紹介する文章には、「ビートルズの精神面での指導者」といった言葉が記されるようになる。また、ビートルズの了承も取らず、自分が出るアメリカのABCテレビの番組に彼らを出演させると公言した。
全くそれは与り知らぬことだと連絡した後も、マハリシはビートルズが出演すると言い張った。そのため、ジョージとポールが、承諾を取らずにビートルズの名前を宣伝活動に使わないようにと説得しに行かねばならなかったのである。この時、マハリシは、頷き「くすくすと笑った」と言う。

ジョージは、マハリシには世間的に疎い部分があるのだろうというようなことで弁護したようだが、事実は全く違った。彼は、「マハリシ」と名乗った頃から、世界中を回って活動しており、実務的なことに無知であったとは思えない。それでも、ビートルズはまだマハリシを信じ、インドでの宣伝フィルムに出演することを承諾している。

その契約を結ぶために、ビートルズ側は、担当者がリンケシュまで赴くのだが、この時「大いなる魂」を名乗る聖者に専属の会計士が存在し、収益分配率等について驚くほど細かい交渉をすることに仰天するのである。マハリシは、「ビートルズの精神面の指導者」として、アメリカで大いに知られることになる。
「タイム」、「ライフ」、「ニューズウイーク」等々...殆どの雑誌の表紙に彼の顔が飾られた。明らかに、ビートルズの所為である。当時のマスコミが、マハリシの“深遠な教え”を理解していたとは到底思えない。何だか解らないが、とにかくビートルズは彼から影響を受けているらしい...
まあ、そんな処だったのではなかろうか。しかし、何にせよ、明らかにマハリシは、ビートルズによって、急激に“信者”を増やしたことは間違いないのである。
このように語ると、ビートルズがいいように利用されただけという印象になるが、彼らにとって、“マハリシ体験”がまったく無意味だったというわけでもないようだ。

ポールがこんなことを語っている。
「彼がお金をどう使っているのか、何処に貯めているのか、知りようも無かったよ。今でも彼は、あの絹の衣装で超越的瞑想を説いて回っている。香港に豪華なペントハウスがあるという話を僕は信用しない。そんな疑いを持ったことは無いね。彼は常に瞑想していたし、色んな話をでっち上げていたとは思わない。こういう言い方がいいのかな。『堕落した様子は見られなかった』と。もっとも絹の衣装が堕落だと言うのなら、それまでだけど」
ジョージではなく、間違いなくポールの言葉なのである。

更ににドラッグから全く遠ざかった生活を送ったジョンは、リンケシュ滞在中に次々と曲を作っている。「ジュリア」、「ディア・プルーデンス」、「ミーン・ミスター・マスタード」、「アクロス・ザ・ユニヴァース」、「ポリシーン・パン」、「ヤー・ブルース」等々。後に発表される曲が、この時期にまとめて書かれていることは印象深い。
ポールも同様だった。音楽が沸いて来る状態になったのである。
好きな曲だという「アイ・ウイル」は、やはり瞑想を学びに来ていたドノバンの助けを借りて作ったものだという。

しかし、ジョージは、彼らの曲づくりをいいことだとは考えなかったようだ。
「ジョージがイラついて、次のアルバムのことを考えるのはやめろって、言いに来たことがあった。『瞑想のために来てるんだ!』ってね。こっちとしては『呼吸していて悪かったね』という感じだったよ」(ポール・マッカートニー)


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