Episord 26 スチュアート・サトクリフ

 その夜、ジュリアは、ミミの家で話したあと、1人でバス停に向かった。夜10時20分前に家を出て、1分もしないうちに急ブレーキの激しい音が聴こえた。
「私はいつも妹をバス停まで送って行ったんですけど、その夜に限って、いつもより早めに1人で帰ったんです」
「恐ろしい音が聴こえました。飛び出して行ってみると、
ジュリアが私の家の前で車に跳ねられて死んでいたんです。その正確な場所は誰にも教えません。いつも通る場所ですから、後あとまで心の傷になってはいけないと思ったんです」(ミミ)

ジョンの友人達に、ジュリアの死の知らせはたちまち伝わった。ジュリアの死がジョンにとって相当なショックであったことは疑う余地はない。幼友達のピート・ショットンによれば、ジョンは気持ちを外に表わさなかったと言う。
これは、いつのまにやら身につけたジョンの生き方の1つだった。教師に殴られても、決して感情を表わさず、何を考えているのか解らない。その時の態度と同じだった。その代わり、ジョンが一段と粗暴な振る舞いをするようになったことを記憶している。
「女の子がジョンに怒鳴っていた。『いくらお母さんが亡くなったからって、私に八つ当たりしないでよ』ってね」

ジョージの友達であるジョンに、他の親達とは違ったまなざしを向けていたハリソン夫人ルイーズは、ジュリアの死がジョンにもたらした影響を明確に覚えていた。
「亡くなる数カ月前には、ジョンは、お母さんと随分仲よくなっていたようです。こんなことを言っていたのを覚えています。『お袋に死なれて平気で生活している奴の気が知れないよ。もしそんなことになったら、僕は多分、気が狂うよ』。
「気が狂ったようには見えませんでしたが、顔を見せなくなりました。自宅に閉じこもるようになったんです。また我が家でバンドの練習をするように、ジョージを通して伝えました」

母を失ったジョンは、ポールとより親密になった。既に母を亡くしていたポールは、ジョンの気持ちが痛いほど解ったはずだ。仲間との絆がいっそう深まったのとは逆に、美術学校でのジョンの評判は芳しくなかった。
当時を知る者によれば、ジョンは他人を傷つけるような言葉や残酷なジョークを口にするようになった。
街で体の不自由な人を見掛けると、わざと大きな声で「軍隊から逃げたいばっかりに、いろんなをことをする奴がいるんだってなあ〜」といった調子だ。これでは、普通の感覚の人間はそばに寄らないだろう。実際、美術学校の殆どの生徒は、ジョンを恐れていた。そばに居れば、何を言われるか解ったものではないのだ。だが、それでもジョンには説明しがたい魅力があったと認める者達もいたのである。

「よく残酷な絵を描いてました。とても巧かったけど。女の人たちが赤ん坊を抱いて、『かわいいでしょう?』なんて言っているんですけど、赤ん坊は、みんな何というか...障害児で、すごい顔をしているのよ」
「ローマ法王が亡くなった時も、気持ちの悪い絵をたくさん描いていたわ。たとえば法王が天国の入口の処で門を揺すって入ろうとしているの。その下に書いてるのよ。『分からないのか。私は法王だぞ』ってね」

「でも、彼の周りには、いつも話を聞きたがる人達が集まっていたわ。1人、ジョンに夢中な女の子がいたけど、いつもジョンのことを嘆いていたようだったわ」
当時の取り巻きの女の子の1人だったセルマという女性の言葉である。ジョンはセルマが語った当時の自分を否定していない。
「僕はセルマみたいな気安い連中に、年中、金をたかっていた。残酷なジョークは確かに言っていた。初めは学校内だけだったけど、酔っぱらったりなんかすると外でも言った。傷つけるつもりは全くなかった。あれは、僕にとっては日常会話だったんだ」
いずれにしても、この時期、ジョンが心を閉ざさずに話していたのは、ポールやジョージ、その他ごく少数に限られた者達のようだ。だが、突然、ポールとジョージを差し置くかのように、現われた者がいた。

チュアート・サトクリフ。
彼は、ジョンとは全く違うタイプだった。周りの者は、この2人が親しいということが信じられなかった。
粗暴なジョンと違い、スチュアートはいかにも将来の芸術家という雰囲気を漂わせている若者だった。ひとことで言えば“将来を嘱望されていた”人物だったのである。ジョンはスチュアートの幅広い知識、芸術的才能に惹かれたが、スチュアートがジョンに惹かれたというのは、周囲には解せない事であったかもしれない。

スチュアートがジョンに惹かれた感じは、後年、マネージャーを買って出るブライアン・エプスタインの場合と似たところがあった。
彼は、昼休みにジョンとその仲間のバンドが演奏したのを聴いて、いっぺんに魅せられてしまったのである。当時、ジョンの音楽をそれほど買った人間はいない。前段に登場するセルマにしても、ジョンの曲をまともには聴いていない。何しろ素人が曲を作り、それを歌い、演奏して、成功するなどという概念が無いのだ。
そんな途方もないことは、誰も考え付かなかった。だから、演奏を聴いても評価の対象というものではない。まあ、何かやってるわという程度のこと以上、考えられなかったというのが正確なところだろう。セルマは、当時のジョンについて次のように表現している。

「彼は有名になれる人だとは思いましたけど、何で有名になるかはわかりませんでした。だって、随分人と違ってオリジナルでしょ?」

彼女は、ジョンが喜劇役者にでもなるかと思ったという。爆笑させるというよりも、たとえばレニー・ブルースのように強烈な風刺で、権力者や世の偽善を暴くようなタイプをイメージしたのかも知れない。つまり、ジョンの音楽をまともに評価し、素晴らしいと褒めたのはスチュアートが、おそらく初めてだったわけだ。
彼には非凡な芸術的才能があったが、楽器も弾けなければ、ロック音楽についての知識も皆無だった。にもかからず、彼はジョンとそのバンドの練習を見守り続け、ついにはその一員となるのである。

スチュアート・サトクリフの美術的才能は疑う余地がなかった。彼は、イギリスで有名な「ジョン・ムーアズ展」に絵を数点出品し、賞金を獲得する。それは学生の身分としては大金といってもいい額だった。この時、彼に楽器を買うことを薦めたのはジョンだった。
もう1人メンバーが欲しいと考えていたのはポールとジョージも同じであり、これに賛成した。バンドに欠けていたベース・ギターとドラム・セットのどちらかを選ぶことになり、結局、スチュアートはベースギターを買う。多分、ドラムでは身近に教えてくる者が居なかったからだろう。スチュアートは、ただ、ジョン達と一緒にいるだけで、楽器はまったく弾けなかった。ほかの3人に教わって、ステージに立つのだが、(それこそが彼の望みだった)すぐに上達する筈もなく、彼は客に背を向けるようにして演奏していた。

彼らは素人バンドから一歩踏み出すため、チャンスを狙い、コンクールに出場するようになる。その頃にはすでにクオリーメンではなくなっており、特にバンド名も無かったのだが(一時、ムーンドッグと名のったこともある)、コンテストに出るとなるとバンド名が必要だった。
その時に、ジョンが考え付いたのが「ビートルズ」というものだった。当時、バディー・ホリーとザ・クリケッツというグループがあり、それをヒントに考えついたものだ。

クリケッツにはイギリスの伝統的な球技である「クリケット」と「コオロギ」という2つの意味がある。ジョンもなにかいいのはないかと昆虫の名前を考えているうちにビートル、カブトムシが頭に浮かんだ。
「僕はそれ(beetles)をBeatlesと綴ることにした。これはただの冗談みたいだけど、この方が"beat"ビート音楽らしく見えるだろう?」(ジョン)
ビートルズという名前が、こうしてこの時期から使われるようになる。
だが、ユニーク過ぎたのか、必ずしもウケはよくなかった。だから、当初は「シルヴァ・ビートルズ」というバンド名でコンテスト等に出場することになる。

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